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松原泰道『釈尊伝』(佼正出版社)<1>
表題の本を読みました。
著者は、臨済宗の有名なお坊さんですね。著書もたくさん出ています。1907年生まれの方です。


その中に紹介されていた話を一つ。


ある修行僧が、大応国師(13~14c)に質問を発します。
「唯我独尊」について質問し、師から教えを頂いた後の第二問。
「釈尊はいまどこにういらっしゃいますでしょうか」
それに対して、国師の答え。
「脚下を見よ」
あとは本文を引用します。


「脚下」とは足下で、もちろん自分の立っている足もとを看ることですが、転じて自分の中に求めよ、ということです。自分・自己とは先に記しましたように、私たちは本来、つまり生まれながらにそれぞれ、ほとけのいのち・ほとけのこころを身に具えているのです。この事実に気づかないのを迷いともうします。
 かりに、いま私たちが迷っていたとしても、それは一時的な現象で、生まれながらにほとけのいのちを頂戴している本来の自分に変わりはないのです。この本来の自分に出会うがよい、とのすすめが「脚下を看よ」ということです。
(中略)
 いつも、自分の心のそこにほとけのいのちが宿っている事実を忘れないようにしていくのなら、遠い昔にお亡くなりになった釈尊のおこころに、いま、ここでお出会いできる、と大応国師はこの修行者に親切に教えるのです。」


「脚下照顧」とは、有名な禅の言葉ですが、いろいろな意味に理解されます。
それぞれの文脈で理解できる、豊かな意味を持つ言葉だということもできましょう。
各家庭や職場、学校、身近な友人関係から始まって、現実、あるいは仏心…。
松原師は、ここでは仏心の意として紹介していますが、各々に備わっている仏心を磨き出すことを修行と言うのでしょう。
そして、そこに大安心の世界がある。


変転きわまりない、先行きの見えない時代だからこそ、不動のもの、永遠のものについて考えることが大事なのだと思います。
それは逃避ではなく、今を生きていくエネルギーになっていくような気がします。


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【2009/05/21 09:14 】 | 読書日記 | トラックバック(0) | page top↑
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