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「大化の改新」は修正が必要?
だいぶ前に録画した、飛鳥古墳のNHKのビデオを見た。

最近の研究では、645年の「大化の改新」は、通説をかなり修正する必要があるかもしれない、とのこと。


『日本書紀』では、蘇我入鹿とその父蝦夷は、かなり横暴な人物として描かれているが、後世にだいぶワルモノとして描かれた可能性がある。

蘇我入鹿は、中国の唐帝国の膨張策に対し、かなり気を遣って唐と敵対しないよう外交努力するとともに、国内の防備を強化した。中国の文化も積極的に取り入れようとしていたらしい。中国の史書では、評価の高い人物として描かれている。

ご存じの通り、中大兄皇子と中臣鎌足はそんな蘇我父子を討ち滅ぼすのだが、彼らは、どうも朝鮮半島の百済を支持していたようで、唐と新羅に百済が滅ぼされると、百済の王族などをかくまったりしていたらしい。

つまり、朝鮮・中国政策を巡って、蘇我氏と中大兄皇子らとは対立関係にあったという。それで滅ぼされた可能性がある。


蘇我氏滅亡後、中大兄皇子らは、天皇の権威を高める建造物を作る、などの他はとくに政策らしい政策をやっていなかったそうですね。実は。公地公民制などは、『日本書紀』に、後世に事績として書き加えられたらしいのです。

それどころか、百済復興を目指して唐・新羅に戦いを挑み、惨敗しています(白村江の戦い/663年)。驚きあわてた中大兄皇子は、「天智天皇」として即位し、大唐帝国に対抗する必要性から天皇集権的な政策を推し進めることになった、というのです。

要するに、国際感覚としては、蘇我氏の方が長けていて、中大兄皇子らの方が、白村江の戦いに負けるまで、唐の実力などをよく分かっていなかった(!)


いずれにせよ、その後唐から攻められることはなかったので対外的には事なきを得ましたが、この話は、幕末の開国と明治維新と型が似ているな、と思いました。

外国の実力に直面して、大あわてで国内の整備をする。

同じ島国なのに、なんで英国はあんなに外交に長けているんでしょうかね…?

日本の外交は、第二次世界大戦後はアメリカの腰巾着でしかないように思うのですが。


それと、やはり「公正な歴史」というものはないのだな、と。

「史書」とは言え、だれが編纂するのかという、その立場と状況によって歴史の方向性が定まってくるということですよね。

歴史はやはり、あくまでも自分自身が、いろいろな立場から見た「歴史」を検証していくしかないのでしょう。
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【2009/05/02 13:05 】 | 歴史 | トラックバック(0) | page top↑
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