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「慈悲」の心
仏教の根本的な精神として、「慈悲」というものがあります。


庭野日敬さんの説明で、感銘を受けました。


まず「慈」は「マイトレーヤ」というサンスクリット語の訳になる。


「マイトレーヤ」は「友」を意味する「ミトラ」という言葉から生まれたそうで、それはつまり、「最高の友情」ということを意味する。


中国人はその言葉を訳すとき、すべての人に対して友情を持つ、という普遍的な意味としてとらえ、普遍的な仁愛を意味する「慈」という言葉を当てたそうな。


それは平等の愛を示し、我が楽しみを他の人にも味わってほしい、という楽しみを与えようとする心である。


もう一つの「悲」というのは、「カルナー」という言葉の訳で、もともとは「うめき」を意味するそうです。


人生の様々な苦しみにうめき声をあげる。他の人の苦しみを我が苦しみとして感じる。そして、その苦しみを取り除いてあげたいと望む。その気持ちに「悲」という訳語を与えたとのこと。


そうすると、「慈悲」というのは、「おなじ人間同士として、おなじ苦の世界に生きているきょうだいとして、しあわせを分けあい、苦しみから助けあいたいという、同志的な友情の交流であることがわかって」くる(『人間を育てる心』p.156)。


かつて、五木寛之さんが、中村元さんの著書から、人間として同じ運命を持つ者同士としての共感、みたいなことをおっしゃっていました。


一瞬先はどうなるかわからない、不安や孤独におびえながら、煩悩にとらわれながら、人間関係で一喜一憂し、あくせく働いてはお金をもらう。病んで、老いて、そしてやがて死ぬ。


そういうはなかい存在であるにもかかわらず、誰かが成功した、幸せになったと聞けば羨んで足をひっぱり、人の不幸をなぐさめとする。


自分も弱い存在であるにもかかわらず、強がって、他の人を踏みつけて平然としている。


でも孤独であることはやっぱり嫌で、嫌われたのではないかと恐れ、人となんとかつながって生きていこうとする。


憤りもあるけれど、自分だって同じようなことをしている。


人間って弱い。醜い。でもどこかで哀れみのようなものが湧いてくる。


そういうものだと思わずにはいられません。


「慈悲」というのは、そのような「哀れみ」が根底にあるのではないかと思います。


純粋に、素直に、「慈悲」の心を生きていきたいです。
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【2009/04/17 20:06 】 | 宗教&スピリチュアル | トラックバック(0) | page top↑
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