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桜散って命の花が咲く
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今春、子どもが無事に幼稚園を卒園し、小学校に入学しました。

その間に、2件の訃報がありました。

お一方は、幼稚園つながりの父兄の親御さん。

お婆さんでしたが、幼稚園の運動会のときに、お昼ご飯を一緒のシートの上で頂いたご縁がありました。やさしそうな方でした。


もうお一方は、職場で同僚だった方でした。

享年53歳でした。

もともと持病はもっていらっしゃいましたが、突然のことでした。


先日ご自宅に線香を上げにいきました。

葬儀には間に合わず、もうすでに骨になっておられました。

あっけないものです。


その方の気配がまだ濃厚に残るお宅の中で、ご供養させて頂きました。

帰り道、その方の面影が脳裏によみがえってきます。

あんなことを言っていたな、あんなこともあったな、あんなこともしてくれたな…と。

楽しかったこと、学んだこと、頭に来たこと、気の毒に思ったこと、今だから悔やまれることなど様々でしたが、その方には一つ、大切なご縁を頂いたことがありまして、それは一生感謝してもしきれないご縁でした。

そのことを、仏前でもお礼申し上げました。


そのご縁とは、庭野日敬という方をご紹介して下さったことです。

庭野さんは、立正佼成会を作られた方ですが、教団の是非はともかく、この方は仏教者として本物だと告白せざるを得ません。

この方の著書から、どれほど多くのことを学んだことでしょう。

その結果、どれほど人生が開けてきたことでしょう。

この不安の多い娑婆世界で、ブレない生き方、希望の持てる生き方をつかめることは、なんと幸せなことなのでしょう。


宗教団体には、私は距離を置いて生きてきました。

集団化すると、組織の論理が働いて、見えるものが見えなくなったり、偽善が生じたり、強制することが起きたりすることがよくあるからです。

だから、教団の善し悪しというのは量ってもあまり意味がなく、ただ、人間の集団の中には良い人もいれば悪い人もいる、立派な人もいればどうしようもない人もいる、ということなのだろうと思っています。

従って、佼成会の是非を問うことはあまり興味がありません。

一人の人間として、庭野日敬という人に興味を持ち、彼から多くを学んでいます。


夜道、見事に咲いている桜の木の麓にしばらく立ちすくんでいました。

この、生と死とが交錯し、終わりと始まりがあわただしく過ぎていく日々に、言葉が追いついていません。

一片の桜の花びらがひらひらと散っていきました。

枯れ木のようだった冬の桜の木は、美しく可憐な花々に覆われています。

つぼみはやがて花となり、そして一枚一枚散っていきます。

その後に、緑色した新しい葉が生えてきて、今度は花に代わって桜の木を覆い尽くします。

やがて秋に葉は黄色くなって落ち、再び枯れ木のようになって冬を迎えます。

飽きることなく怠ることなく、淡々と自然の摂理と循環に従って桜は生きている。

そして、いつか桜もその命を終える時が来る。


人の命が生まれ、やがて死んでいくのも自然の流れですね。

生きている中で、悩み苦しむ冬が来て、それを乗り越えて一歩成長する春が来て、また悩み苦しみがやってきて…

桜の木そのもののようですが、あの、ひらひらと落ちていく一片の桜の花びらが、なんとなくこの世での人の一生のようにも思えてきます。

桜の花びらが地に着いたとき、なにか役目を果たし終わったような感じがありますね。

そして、桜の木よりももっともっと大きくて、光にあふれていて、次元の違うような「大木」のもとに帰っていくのではないでしょうか。命あるものみなすべて。


悔いのないように今日一日を生きていこう。

それで十分ですよね。
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【2009/04/09 22:22 】 | 未分類 | トラックバック(0) | page top↑
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