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2つの「予言」<その1/ジュセリーノ氏の予言をめぐって>
SA350306.jpg



最近、ジュセリーノ氏の「予言」が話題を呼んでいる。彼の予言については、
サイトを見ると当たっているのもあれば当たっていないのもあるようだ。
http://www.jucelinodaluz.jp/ 
その予言によれば、今日(8/27)、台風の被害が日本にあるかもしれない
ということ。しかし、今のところそのような兆候はない。週刊誌などでもたびた
び話題になるジュセリーノ氏だが、彼の予言をどのように考えるべきだろうか。


まず、予言を気にしやすい人というのは、潜在的に不安が常に大きい場合が
あるだろう。生活や人間関係の不安が、「予言」に投影される、というパターン
である。まあ、ジュセリーノ氏の予言はすべて当たるわけではないので、その
ことと合わせて、荒唐無稽と取り合わない人も多いだろう。


私としては、うのみにするのでもなく、かといってまったく取り合わない、という
ことでもない。具体的な災害などの予言が、まああるかもしれない、くらいには
受け止めている。


ジュセリーノ氏の意図も、ただ闇雲に人々を恐れさせたいというわけではない
らしい。人々に警告を発し、意識と行動の変革を促している、ということのよう
である。


このことは、予言を発する意図としては正当のように思われる。旧約聖書でヨ
セフが夢の解釈をしてエジプトの飢饉から救った話が思い出されるが、ジュセ
リーノ氏の予言が当たるか当たらぬか、ということではなく、人類がこれからど
のような意識と行動を選んで行くべきか、示唆を与えているものと受け止めて
いくべきだろう。


予言で「地震がある」などといわれると恐れるのは人のサガであるが、考えて
みると、人はいつ死ぬかわからない運命にある。うまく天災をよけて生きてこ
られたとしても、死そのものから逃れられるわけではない。いつかは必ず死ぬ。


そう考えると、予言というのは、人間はいつ死ぬか、どんな災難にあうか分か
らない存在なのですよ、とささやいている声のようにも思える。


これは、大事なことである。なぜなら、人は明日があるような、そして明日が続
いていくような、そんな漠然とした時間の感覚を抱いて生きているものだが、実
際はそうではない。端的に、重病の方などはそのような現実は生きられまい。
ところが人間は死を忌避するあまり、普段はタブーとして考えないようにしている。
話題に出すのも気が引ける。


ところが、死は確実に、平等に誰にでも訪れる。ましてや明日生きているとも、
だれも保証してくれるわけではない。それが現実である。


その現実に直面すると、今の生き方や考え方などを見つめ直していかざるを得
ない。果たして悔いのない生き方をしているだろうか? 「している」と胸を張って
いられる人は少ないだろう。


さらにまた、「悔いのない生き方はなにか?」ということも次には問われてくる。


このあたりは次回に書くとするが、ともあれ、「死すべき運命」というものを普段
忘れがちな私たちに対し、ジュセリーノ氏は、注意を促していると私は受け止め
ている。私たちは遅かれ早かれ死ぬということ、そして私たちが今生きている
社会に対して、どのように参加して築き上げていくか責任があるということ、価値
のある、意味のある生き方はなにか、ということ……。


次回以降はそのあたりを考えながら、J・レッドフィールド氏の『聖なる予言』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4042693016/namakemono0c-22
のことにふれてみたい。この著書は、いわゆる2012年問題、アセンション
の先駆的な「予言書」であると、私は思っている。
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【2008/08/27 00:50 】 | 宗教&スピリチュアル | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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