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高尾山薬王院、参詣。
今日、墓参りの帰り、高尾山薬王院に参詣した。
古くから修験道のメッカとして信仰されてきたことは聞いていた。
ケーブルカーで登り、さらに薬王院に向かって歩く。その清澄な山の気が肌身に伝わってくる。


ご本尊は「飯縄大権現(いづなだいごんげん)」。以下、HPの引用。


更に寺伝は、南北朝時代、永和年間(一三七五~七六)に、京都・醍醐山より俊源大徳(しゅんげんだいとく)が入山し、高尾山中において勇猛精進し、不動明王の御宝前で真言密教の秘法・八千枚の護摩供を修して、飯縄大権現(いづなだいごんげん)を感得したと伝えております。


なるほど。醍醐寺は去年参拝させていただいた。川崎大師も私の好きなお寺だが、成田山新勝寺とあわせて、真言宗智山派の関東三大大本山とのこと。ご縁をいただいた模様。


私の今生でのテーマの一つは「里の行」。現世は道場。仕事において、家庭において、修行を積むことが目的の一つらしい。


修験道で人気のない自然の中を修行する孤独というのはどのようなものだろうか。それはそれで人恋しくなるものなのだろうか。知る由もないが、今の私の課題は、人の中にいるときの孤独である。


しかしそれは多かれ少なかれ現代人の共通する孤独のように思える。そういう孤独を抱えた人間の起こす犯罪として、先の秋葉原の通り魔はまだ記憶に新しい。彼も人間の中にいたが孤独だった。


諸富祥彦氏は『孤独であるためのレッスン』(NHKブックス)で、孤独を深めることこそが現代に必要だと逆説的にいう。人間関係や社会性が大切なのはいうまでもない。しかし、それだからこそ、孤独を大切にしなければならない。孤独を知る者こそ、人間関係を本当に大切にできる、と。


たしかにそれはそうかもしれない。孤独があって、人の温かみがわかる。それは古典的な法則だ。だから、孤独を抹消しようと躍起になるのではなく、視点を変えればいい。この孤独からなにを知ることができるのか? 自分はなにを求めているのか? 


孤独だから、人は人を求める。しかし、ずっと一緒にいれるわけではない。また、すべてをわかってくれるわけではない。しかし、その限界をわかっていればこそ、その時の人間関係をかけがえのないものとして過ごせるのかもしれない。


別れの痛みによって愛の深さを知る。それは避けられない。諸行無常を思い起こすとき、毎日が大小の別れの繰り返しだということに気づく。今日この人と会うのは今生では最後かもしれない。そんな日
常を送っているというのが真実だ。明日にはどうなるか、だれにもわからないのだから。


だとすれば、取り立てて変化のない平凡な毎日に見えたとしても、諸行無常という風は一瞬一瞬をかけがえのないものに映し出してくれるスクリーンなのかもしれない。


その一瞬一瞬を素直に、まっすぐに生きること。それはとても勇気のいることだ。そうやって一瞬一瞬を生きていくのは理想だが、そうできないのが現実というもの。


その理想と現実の狭間で、人間は成長していくのですね。
そして、諸行無常を知ること。その故に、身口意の三行に注意深くあり、それらを自然の善に近づけていくこと。
それを仏教では智慧というのでしょうね。
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【2008/08/13 22:55 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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