スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:-- 】 | スポンサー広告 | page top↑
天上天下、唯我独尊
SA350252.jpg


天上天下、唯我独尊。通常この言葉は、否定的な意味に用いられるようである。辞書には、「唯我独尊:自分だけが優れていると自負すること」とある。お釈迦さんが生まれてまもなく言った言葉だという伝承も。


その解釈をめぐってはさまざまあるようだ。もとよりお釈迦様が生まれてまもなく言ったというのは「史実」ではないだろう。


ふと、私は思った。お釈迦さんが語ったというこの伝承は、釈尊こそは自分の存在価値を正当に認めている人物であったということを述べているのではないか。


むろん、根拠はないし、もともとの意味から逸れているかもしれない。しかし、この伝承からインスピレーションを感じ取るということも、個人的な意味ではあってもよいだろう。むしろ、聖典や経典と言われるものは、正当な解釈とともに、そういう自分のとっての意味、インスピレーションみたいなものを感じ取ることに意味があるのではないか。


それはともかく。
自己否定感にとらわれ、自分のことを苛んでいたそのとき。鏡に映った自分自身の顔は、自信のない、否定的な感情を滲ませていた。


そんなとき、『ザ・シークレット』という山川夫妻訳の本を読んでいたのだが、「自分自身を真に尊敬しているか」というような問いかけに出会った。自分自身に対する尊敬や敬意なしに、他の人を尊敬し尊重することはできない。自分自身を尊敬する、ということはナルシシズムとは違う。自分という存在に宇宙が息づき、活動している。その命の尊さ。気高さ。それは「私」と、他の人も含めたすべてとの一体であることの尊さや素晴らしさも含んでいる。


私は大切で崇高な存在なんだ。すばらしい命なのだ。それは言葉ではなく感覚として押し寄せてきた。自分自身を蔑んではいけない。それは宇宙に対する冒瀆だ。


ふと出会った人たちの顔が浮かんでくる。ああ、あの子はどうしてあんなに自分を価値のないものだと思い込んでいるのだろう? 親がやさしくしてくれないから? どれほど傷つく言葉を受けてきたのだろう? 存在を否定され、無視されてきたのだろう?


私はその加害者でもあり、そしてまた被害者でもあった。そういう時もあった。今なおその二人は私の中に棲んでいる。


しかし、私は言いたかった。自分はとても大切な存在なんだよ、と。もう誰も責める必要はないし、責められる謂れもない。決して傷つくことのないダイヤモンドのような宝石を持って生きている。そんな尊さに気づいてほしい。十分に愛されてしかるべき存在だし、また愛されている。そして愛することもできる。


傷ついているから傷つける。傷つけるから傷つけられる。そうして私たちの世界は日常を刻んでいる。その生き様は、あまりにも悲しすぎる。傷や苦しみに無意味みなものはない。それはわかっているけれども、もう無用の苦しみはいらないんじゃないのか。


自己より愛しいものはない。それゆえ、他の人を傷つけてはならない。こうお釈迦様は言う。本当に自分の大切さを感じるとき、他の人も同様に愛しく、大切に思える。
天上天下、唯我独尊。このときの「我」は、すでに私たちになじみの深い、他の人と断絶し屹立した「我」ではなく、自他の区別のない、すべて一体となった「我」であったのだと、私は考えた。
スポンサーサイト
【2008/07/16 00:11 】 | 宗教&スピリチュアル | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
高尾山薬王院、参詣。 | ホーム | 2012年になにかがおこる? <その4>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
| home |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。