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法華経の話
かなり久しぶりの更新である。
この数ヶ月は筆舌にし難い忙しさとともに、精神的にもややきつくてなかなか更新できませんでした。

身辺ではいろいろなことがありすぎて、細かいことを挙げるとキリがないが、時間も少しあるので、今回は法華経から学んだことをエピソード風に書いてみたいと思う。


法華経といえば日蓮さんだが、実は日蓮さんにはあまり親近感を持っていなかった。さらっと歴史で習った範囲では、その排他的な宗旨というイメージが強く、あまり好感を持っていなかったのである。むしろ親鸞さんや道元さんなどの方が好きだった。

日蓮宗系の団体に所属している級友が、思い返せば中学時代からいて、そういう連中とはむしろ論争したり、口論の種になったりしていた。私が育った家庭も、むしろ宗教はタブーに近く、信仰心というものはほとんど尊重されていなかった。

しかし、縁というのは不思議なもので、20歳前後の頃、なにも知らず偶然千葉は小湊の誕生寺に行ったことがあったり、佐渡を旅したときに日蓮さんゆかりの遺跡を訪ねたり、鎌倉でも日蓮さんのゆかりの史跡などをそんなに深い思いもなく訪ねていたりした。また、日蓮宗系のお寺さんのお宅にも仕事のからみでお付き合いさせていただいたりして、振り返るとなにかとつながりはあった。

昨年末にやや本格的に法華経を勉強する機会を得て、勉強し始めたところ、今までの法華経の理解の浅さに愕然とし、その含蓄豊な教えに正直目が覚める思いがした。なるほど「諸経の王」とは言ったものである。

今回は、法華経の中でもとくに二つの教えについて挙げてみたい。というのは、この教えが今の私の大きな支えとして生きているからである。

一つは、「提婆達多(だいばだった)が善知識」という教えである。提婆達多とは、お釈迦さんの弟子で、テーヴァダッタという名前を中国語に音写したもの。仏伝では、お釈迦さんの教団の分裂を引き起こし、お釈迦さんを亡き者にしようとした、教団とお釈迦さんにとっては宿敵と言っていい人物である。しかし、法華経の中で、お釈迦さんはその提婆達多こそが自分に悟りを開かせてくれた大切な友人である、と仰っている。

これはどういうことか。詳しい説明をできる力はないので、そのことからどのような教えをされているのかということで言うと、自分を害し、損ない、傷つけようとする人、苦しめる人こそが、自分にとって大切な人間だ、ということだ。

これはなかなかそう思えるようなことではない。自分を傷つけ、苦しめる人は、普通憎んで当然だし、できれば避けて通りたい、接したくないと思うのが人情である。しかし、それとはまったく逆の受け止め方ではないか。つまり、言わんとするところは、そういう自分を苦しめるような人だからこそ、自分自身の至らなさや修行の甘さに気づかせてくれるのであり、そのことによってさらに自分が高い境涯に到達することが出来る、ということになるのだと思う。

さらにもう一つ。「常不軽菩薩」の話である。
これは、お釈迦さんの前世の修行の話で、どんな人に対しても「あなたは仏になる人だ」と言って拝んだ、という話である。拝まれた人の中には、罵倒したり嘲笑したり、怒り出す者さえいたという。それでもこの菩薩はめげずに「あなたは仏になる人だ」と言って拝み続けたということだ。

つまり、どんなにゆがんでひねくれた人の中にも、邪で性格の悪い人の中にも、冷酷無比な人間の中にも、やがて仏となるべき仏性が宿っている。これはすごい話だ。人の仏性を拝み続けるとき、相手の中の仏性を顕現させるとともに、自分自身の中の仏性をも開花させるという。また、修行が進めば、すべての人やものの中にありありと仏性を見ることができるのだそうだ。

このように考えたとき、ふと私の人間関係において、かなり楽になったのである。今まで許せずにいたことが許せるようになったり、頭に来てどうしようもなかったことが頭に来なくなったり、怒り心頭の場面で平常心を持つことが少しできるようになった。

なぜだろう。それは、一つには、ネガティブな思いや言葉に対して、私がネガティブに受け止めるのを幾分防ぐことが出来るようになったからだと思う。相手がどうであろうとも、自分の受け止め方や接し方が大切なのだということを改めて痛感した。実際、ネガティブなものをそのままネガティブに受け止め返さずに、プラスに変えていけることのほうが、自分がさらに大きく成長できるように思う。

これらの法華経の教えは、どんな場所でも生きていく底力みたいなものを私に与えてくれた。その環境がどんなに劣悪なものであろうとも、そこからプラスの養分を吸い取って、大きくなっていくことができる教えだと思う。

その教えを知ることができたことをなんとありがたいことだ、と思ったとき、日蓮さんのみならず、諸先師が法華経を大切に教え伝えてきたことの意味や尊さが分かった。

教義や伝統というものは庫裏や本堂の中に祀り上げられてあがめられるものなのではなく、今の生活に、生きていくことに十分その力を発揮できてこそ、その真価があるのだろう。なるほどお釈迦さんの教えが「苦」からの解放の教えであるというのも納得したのである。


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【2007/04/08 21:30 】 | 宗教&スピリチュアル | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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