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村上春樹 『ねじまき鳥クロニクル』④
今日は連休の中日。「子どもの日」でしたね。所用があって駅前のヨドバシカメラに行ってきたのですが、ズラリと並んだ電動マッサージ機に、オジサン達がビッシリと横たわっている風景を見かけました。空いているマッサージ機はありません。GWのもう一つの側面を見たような気がしました(^^j)

このところ晴天続きで、空気も乾いていて爽快ですね。

『ねじまき鳥~』の続きです。
前回、「世界の解体」というテーマについて触れました。
たとえば、主人公が空き家の庭にたたずんでいるときの描写。

「脚を椅子の上にあげ、膝を折るようにして、その上で頬杖をついた。そしてしばらく目を閉じていた。相変わらず音は聞こえない。目を閉じた暗闇は、雲に覆われた空に似ていたが、それよりはもう少しグレイが濃かった。そして何分か置きに誰かがやってきて、それを少し違った感触のグレイに塗りかえていった。金の混じったグレイや、そこに緑を加えてグレイや、赤の目立つグレイに。そんなにたくさんのグレイにが存在することに僕は感心した。人間というのは不思議なものだな、と僕は思った。十分そこからじっと目を閉じているだけで、こんなにたくさんの種類のグレイを見ることができるのだ」(第1部 泥棒かささぎ編 111ページ)

今まで気づきもしなかったことに気がつくようになっていくわけです。

あるいは、笠原メイという隣人とのやりとりの中で、空き家の井戸をめぐっての次のような会話と一文。

「『水はないのよ』と笠原メイが言った。『水のない井戸』
 飛べない鳥、水のない井戸、と僕は思った。出口のない路地、そして……」(同書 121~122ページ。下線部は本文では傍点)


ここで想起したのは、たしか上田閑照(しずてる)氏の著書の中で触れていた、「隻手の声」の話です。
「隻手」とは片手のことです。禅の公案ですね。隻手の声は、どんな声かという(だったと思う)。

普通、拍手のように両手を合わせて初めて音が鳴るわけです。ところが、片手で鳴らす音を聞けという。

これは、日常的な論理では理解できない命題ですね。片手で音が鳴らせるわけがない。このような公案を突きつけられた方としては、途方に暮れるしかないわけです。

ところが、この「途方に暮れる」という事態が重要なわけです。いままで常識だと考えていてつゆ疑ったこともないような認識のあり方が、問い直されるきっかけとなるわけですから。

こうして「思い込み」を自覚することによって、「当たり前ではないのかもしれない」という疑念が浮かんでくる。その隙に、ようやく新たな事実、もっと言えば真理を受け入れる余地が生じてくることになるわけです。

「恋は盲目」と言いますが、「あの人は信用できないよ」なんて誰かから言われても、恋に夢中になっている本人にはまったく受け入れる余地はありません。「アンタはあの人のことを分かっていない」なんて逆ギレする始末。「そうじゃないかもしれない……」なんてことが重なって、ようやく本当の姿が見えてくる。

さて、この第1部では、主人公オカダトオルの妻、クミコの複雑な生い立ちについても触れられています。
彼女の実家は、母と父方祖母との間に激しい確執があり、3歳から6歳までの間、祖母宅に引き取られて育つことになる。ヒステリックな祖母で、祖母が乱心しているときには、「心を外界から一時的に閉ざして」しまうようになった(第1部 128ページ)。

「何かを考えたり、何かを望んだりすることを一切やめてしまうのだ。状況は彼女の判断能力を遥かに越えていた。クミコは目を閉じ、耳を塞ぎ、思考を停止した」(同ページ)

その後、本来の父母の家庭に戻るのだが、なじむことが出来なかった。クミコの孤独と混乱を理解して受け止めてくれたのは、小学生の姉だけだった。兄も、両親もクミコのことを理解し受け止めようとはしなかった。しかし、その姉も、クミコが帰宅して1年後に事故で亡くなってしまう。姉は小学生ながら一家の要のような存在だった。両親も兄も、暗にどうして死んだのがクミコではなかったのか、という思いを隠しきれずにいた。姉の死後もことあるごとに賞賛した。クミコは生きていることに罪悪感を抱くようになってしまう。

「……これまでの人生で、何かを本当に欲しいと思ってそれが手に入ったことなんてただの一度もないのよ。ただの一度もよ。そんなのってないと思わない? そういうのがどんな人生か、あなたはきっとわからないわ。自分が求めているものが手に入らない人生に慣れてくるとね、そのうちにね、自分が本当に何を求めているのかさえわからなくなってくるのよ」(第1部 132ページ)

クミコの孤独というのは、かなり深刻なものがあったと言えると思います。それでは、クミコの父という人はどういう人だったのか、そして兄という人はどのように育っていったのか…ということも続けて書かれていますが、それは次回以降にします。

この引用の言葉で思い出したのは、フランクルの有名な『夜と霧』のことです。
フランクルはユダヤ人として、第二次世界大戦中に強制収容所に収容され、奇跡的に生還したという人です。彼が強制収容所で経験したものを本にしたのが『夜と霧』なのですが、その中で、収容されている人間たちが、徐々に感覚が鈍磨していく姿が描かれていました。

絶望的な状況に陥ると、自己防衛反応として、外界からの刺激をシャットアウトしてしまうようになる。感じないようにしてしまうのですね。そのまま受け止めていたら、ストレスでまいってしまいますから。それで感情がどんどん鈍くなっていく。

クミコさんの置かれていた状況というのも、似たようなものがあったのかな、と思ったわけです。

家庭環境でそうなることもありますが、学校や会社だって、けっこういますよね。死んだ魚のような目をした人たちが。自分をとりまく環境に抗うことも逃げることも諦め、ただ流されて生きていくとああいう風になっちゃうのかな。その方が楽だから、というのもよく聞きます。

「随所に主となれ」という言葉が、禅の世界にあります。
解釈はいろいろあると思いますが、どんな状況であれ、自分が主体であることを忘れるな、環境に飲み込まれるなっていうことなのかな、と私は考えています。周囲の環境や社会を責めるのは簡単ですが、いずれにせよ、その過酷な状況の中でどう生きていくのか、というのは本人の選択にならざるを得ない。その責任からは逃れられませんね。

この物語は、主人公やクミコさんの選択の物語でもあります。自分が新たに生まれ変わっていくそのときに、どのように世界(観)が変化し、なにを選択していくのか、という。

後述することになると思いますが、クミコさんの兄のワタヤノボルの選択と、対照的に描かれています。つまり、主人公にとって義兄のワタヤノボルは、「影」なんですね。別言すれば、「影との対決」というテーマを孕んだ物語だと言えるでしょう。
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【2006/05/05 21:45 】 | 読書日記 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
『ナルニア国物語① ライオンと魔女』 | ホーム | 村上春樹 『ねじまき鳥クロニクル』③
コメント
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『ねじまき~』は、数年前に読みました。
印象深かった。
そしてこの感想を読んで
「ああ、そういう読み方もあったのね」
って思ったわ。

知り合いが読み終えた後、
「気持ち悪い」「不気味」
と言っていたけれど、それは何となく分かる。
同時に
「書いていて辛くなかったかな~」
と思う。
自分の抽象的世界をものすごく掘り下げて書いている気がした。
「手探りで書いている」
そんな肌触り。

この後、「海辺のカフカ」「アフターダーク」「東京きたん」
(若しかしたら「神の子らは皆踊る」もかな?)
を書いているけれど、「ねじまき~」を書いて、一区切りがついたような気もしないでもない。
「著者分析」みたいな書き方で、ちょっと書いていて嫌になったりするのだけれど、そう思うんだからしようがない。
「海辺の~」はまだ引き摺っているのだけれど、最終的には再生していて。
特に「アフター・・・」はすごく面白かったな。
「これからが楽しみ!!」って思ったもの。
「ねじまき~」で吐き出し尽くした感じがする。
だから、友人が「気持ち悪い」「不気味」って言ったのはなんかとても納得するのよね。

これからが楽しみだわ♪
by:ねむりねこ | URL | #-【2006/05/27 21:04】 [ 編集] | page top↑
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へえ~、村上さんにとっては一つの画期の作品なんだね。『海辺~』や『アフター~』とかはまだ読んでいないんだけど、おもしろそうだね。
そう、村上さんは現実感覚のあいまいさっていうのかな、その描き方がすごいな、と思っているのです。それってさ、現代人の感覚のような気がしてね。人間関係の微妙さやバランスの危うさとかね。寄る辺のなさも。
村上さんが、これから先どういう世界をつかみ取っていくのか、興味があるよ。
by:観音寺 弘明 | URL | #-【2006/05/30 09:48】 [ 編集] | page top↑
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