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村上春樹 『ねじまき鳥クロニクル』②
このところ心身の調子悪く、苦しい日々が続いていましたが、ようやく復調してきました。

調子が悪いときというのは、ちょっとした人の言動でも頭に来たり、落ち込んだり、傷ついたりするので厄介ですね。自信なく生きていくつらさ。できれば人と会いたくないときもありますが、所帯があればそういうわけにもいきません。八方ふさがりのとき、状況に身を任せて抵抗しないようにしています。無理にあがくとますます墓穴を掘っていくので。

さて、墓穴からちょっと這い出してきたところで…『ねじまき鳥クロニクル』ですね。

私にはきちんとした文芸批評する能力はないので、感想めいたものを書いていこうと思います。

物語は、平穏な日常を突き破るような、一本の怪電話から始まります。「お互い分かり合えるために、10分間時間がほしい」という、謎の電話。もちろん誰だか分からない。

余談ですが。
このあたり…異次元の世界と電話でつながっていることや、構成なんかが、なんか映画の『マトリックス』に似ているような気がしているのは、私だけでしょうか。製作時期としては村上さんの方が早いと思いますが。彼の本は海外でもよく翻訳されるらしいので、マトリックスの作者にインスピレーションをなにかしら与えたこともあるかもしれません。あるいは単なる偶然かもしれませんが。

ともあれ、主人公はオカダトオルという、失業中の主夫。
彼は、失業前は法律事務所に勤めていた。「普通に」働いて生きていくこと、そして「普通に」結婚生活を営んでいくことに、懐疑を抱くようになっている。

家計を賄う働き手の妻クミコと、ある晩、ちょっとした諍いが起きる。そのとき、クミコは次のように言う。

「あなたは私と一緒に暮らしていても、本当は私のことなんかほとんど気にとめてもいなかったんじゃないの? あなたは自分のことだけを考えて生きていたのよ、きっと」(49~50ページ)

「僕」ことオカダトオルは、クミコは疲れていたのだ、体調が悪かったのだと思う。しかし、すっきりしないものが残る。

「…そしてその奥には、僕のまだ知らないクミコだけの世界が広がっているのかもしれない。それは僕に真っ暗な巨大な部屋を想像させた。僕は小さなライターを持ってその部屋の中にいた。ライターの火で見ることが出来るのは、その部屋のほんの一部にすぎなかった。
 僕はいつかその全貌をしることができるようになるのだろうか? あるいは僕は彼女のことを最後までよく知らないまま年老いて、そして死んでいくのだろうか? もしそうだとしたら、僕がこうして送っている結婚生活というのはいったい何なんだろう? そしてそのような未知の相手と共に生活し、同じベッドの中で寝ている僕の人生というのはいったい何なんだろう?」(57ページ)


日常を打ち破る小さな出来事の数々。
怪電話、クミコの可愛がっていた猫の失踪。クミコがいつの間にか身につけていた、見たこともない魚の金のイヤリング。牛肉とピーマンの炒め物が実は嫌いだった、と騒ぐクミコ…。

非日常的な出来事というのは、日常という既成の枠を破っていく前兆、前触れであることは、納得できるような気がします。普通、不安になりますけどね。

特に、自分自身が変わっていくとき―それは並行して人間関係も変化していきますが―、今まで黒く見えていたものが黒でなくなっていくというか、当たり前だと思っていたものが当たり前でなくなったり、見えてなかったものが見えてきたりする。

「僕」は、気づいてしまったんですね。理解していたようで、実はクミコの一部しか分かっていなかったのではないか。

ふだん、日常の関係で、「この人はこういう人」とお互いに心の中で認識し合っているものですが、それでお互い分かった気になっているけれども、ここでは根本的な問いが投げかけられている。「分かり合う」って、なにを「分かっている」のか。それは「本当に分かって」いるのか。

これはある意味厳しい問いです。
夫婦なら、一番の理解者は伴侶であってほしいし、またそうであるはず。またアイツのことは俺がいちばん分かっている、と自負している。
ところが、そうじゃないかもしれない。
逆に近くにいればいるほど、相手が見えなくなってしまうことだってありうる。

相手を理解する、というのは、おそらく永遠の課題でしょう。相手から発せられる言葉、表情、態度、行動。こういうものは、いわばオモテの部分。その背後にある感情、動機、欲望、コンプレックス。それはウラの部分。
じゃあ、そのウラが分かったからといって、相手を「分かった」と言ってしまっていいのか。その「ウラ」だけ見れば、おそらく人間不信に陥ってしまうことでしょう。なあんだ、いいこと言ってばかりいるけど、一皮むけば人から仰ぎ見られたいだけじゃねえか。本当は虚栄心の塊で、寂しいだけなんだ…なんて具合に。実際、それで人間不信になっている人もよくいる。かく言う私自身、何度となくそういう危機に陥ってきましたし(笑)

ところが。
さらにその奥に、なにかあるのではないか。あると信じたい、ということもありますが。
上記で言う「ウラ」の部分も、実は「オモテ」の階層に属するものなのではないか。
このあたりになってくると、宗教の世界に入ると思います。
端的に、仏教的な言葉で言えば、「仏性」ということになるでしょう。なるほど人間は利己心の塊のような存在であるが、その奥には人のためになにかをしてあげたい、という慈悲の心が埋まっている。ただ、その発現の度合いが低く小さいだけだ、みたいな。

もうこれは、信じる・信じないの世界でしょうね。
少なくとも私にとっては信じないと生きていけないので、信じています(笑) 現実的には、仏性なんてあるんかいな!なんてグチりたくなる日常ですが…。なんてサイテーのやつだ、という人の中にも、仏性を見出せるような修行を実行中です。仏性と言わずとも、まあありていにいいところとか、無私のところとか、素直なところとか、そういうところですけどね。また、そういうところを意識するようにしていかないと、日常的におつきあいしていかなければならない関係であるのなら、こっちがつらくなりますからね。こちらの嫌悪感が高じれば、自然に相手にも伝わってよけい嫌悪な関係になるでしょうし。

「分かり合う」というテーマに戻ります。
日常というものは、絶えず変化していく宿命にある。
どんなに堅固な日常のパターンであろうとも、必ず変化をきたしていく。その変化の前兆は、非日常的な出来事である。
人間関係も、当然その変化の洗礼を絶えず浴び続けることになる。「諸行無常」ということですね。

言葉を代えて言うと、「こうだ」と思い込んでいたものが「こう」ではなくなっていく。そのプロセスにはかなりの不安とストレスが生じるはずです。「こうだ」と思っていたのものが、自分の理解を超えて未知の変化を遂げていこうとするのですから。

でも、人間はある程度、「世界はこうだ」というものがないと生きていけないのも事実。そうすると、「こうだ」という世界の理解なり解釈なりは、絶えず修正され続けていくものと覚悟するしかない。「こうだ」に執着すると「こうじゃなきゃいけない」になり、それは「苦」となる。

人間関係でこれやると最悪ですよね。
「お前はこういうやつだろ」とか「こうじゃなきゃダメでしょ」というような。
ある程度、相手に期待するというのは当然ありますけどね。こうあってほしい、というのは。でも、あくまでも、その期待をどう相手が受け止めて生きていくのか、というのは、相手の現実をそのまま受け止めないといけない。そうしないとうまくまわらない。厄介ですねえ。
身近な人だから、「こうあってほしい」と望んでしまう。
でもどんな姿でも受け入れる、という姿勢も、ときにはそれ以上に大事。

「相手が分かる」というのは、その相手の希望と現実を「分かる」ということなのかな。
さらにはその奥にあるものまで「分かろう」とすれば、これは容易なことではありませんね。

くれぐれも、相手を「分かった」つもりにだけはならないようにしていきたいものです。それをやっちゃうと、相手への理解もそこで止まってしまいますからね。


20060414232658.jpg


もう桜の花もだいぶ散ってしまいましたねえ。
今はチューリップがきれいに咲いてますね。
木々の新芽の成長を見るのも楽しみです。
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【2006/04/14 21:47 】 | 読書日記 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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