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人生の終わりの時・その9
寒い日が続きますね。

今日は子守の日で、昼近くに公園に子どもを連れて出かけたのですが、寒くて鼻水が出てきたので、これはヤバイと思い、遊びを切り上げておうちに帰ろうよ…と促しますが、「まだ遊ぶ!」の一点張り。なんとかなだめすかして家にたどり着くと、空腹と遊びたい未練と眠いのとのでまあ泣くこと泣くこと…。かれこれ30分くらいは泣いていたでしょうか。

ようやく泣き止むとオムライスをぱくぱく食べています。
その後は昼寝もせずまったりとし、室内で遊んでいました。自分の時間は…ありませ~ん! ようやく今もらっています。


さて、チェスターという犯罪者の体験の続編ですね。

「つぎにわたしは、ふわふわした雲の中のような平和な場所に入っていきました。そこで、宇宙がいっぱいの泡に満たされているのを見ることができました。泡のひとつに、男でも女でもないすべすべした肌の存在(エイリアンの一典型として描かれるような存在だった)が見え、わたしはその存在と一緒にいたいと強く思いました。それはわたし自身の無垢な姿でした。わたしもひとつの泡の中に入っていました。わたしは、無垢のわたしが入っている泡に手を伸ばして、それと一体になろうとしました。その間ずっと、わたしは宇宙との一体感を感じていました。また、他の泡と自分が深く関連しあい、目的を共有しているということも感じました。泡の中にはいろんな存在がいて、おたがいに触れあったり、溶けあってひとつになったりを繰り返していました。
 この間に、多くのことを感じました。すばらしい全体性、完全な充足感、目的意識、すべてのものに対する大きな愛などを感じました。このとき、すべてのものはわたしの中にあり、わたしはすべてのものの中にあるのだということがわかりました。
 同時にわたしは多くの洞察を得ることができました。わたしの泡が他の泡と一体になりたいと願いながら、どうしても一体になれない場合がありました。たがいに触れあうところまではいくのですが、間の膜が消えず、融合できないのです。わたしはこれこそ“地獄”の状態だと思いました。地獄では存在同士が分離されていて結びつくことができないのです。
 それからわたしは、どこかに引っ張っていかれるような感じがしました。それまで見えていた泡の映像は視界から消えてしまい、それに代わって、下のほうに何か小さな斑点のようなものが見えました。そっちに向かっていくと、その斑点みたいなものがだんだんはっきり見えてきて、それが三ヶ月くらいの胎児だということがわかりました。
 その胎児を包む羊膜の中にわたしが入ろうとしたとき、急にわたしは我に返り、すべての体験は終わっていました。気がつくと、わたしは刑務所の一室のベッドの上に座っており、静かな夜の闇に包まれていました。
 わたしは自分が清められ、浄化されたと感じました。喜びのあまり涙が流れました。涙を流しながら笑っていました。自分が命を奪ってしまった相手に対する愛で心が満たされていました。その相手と目的と方向が一致していると感じました。この体験以前、わたしはいつも不満で、一切に無感動、無感覚でした。懸命に社会に適応しようとしたのですが、心の弱さや未熟な性格のせいで、自分は不当に無視され、人から愛されもせず、助けも受けず、よい機会も与えられないとひがんで、フラストレーションからむちゃをやったのです」(271~273ページ)



この話にはインパクトがありました。
地獄の件(くだり)については、なるほどという感じでした。
江原さんがよく、愛の電池が切れると人間は誤作動を起こすなんて言いますが、その通りだなあと思います。
かつて、キリスト教の教会に通っているとき、牧師先生が、罪とは神から切り離されていることだ、なんて仰っていました。

チェスターの体験した異次元の世界は、詩的な美しい世界ですね。
全体性の感覚っていうのでしょうか。つながりあっているという世界。華厳経の世界を想起させます。

私たちが生まれてくる前の世界、そして死んだ後の世界というのは、きっとこのような世界なのだろうと思います。

じゃあどうして、こんなにも生きていくのが困難な娑婆世界に生まれた来たのだろうか―そんな素朴な問いがありますね。それは次回以降、考えていきたいと思います。

どうして臨死体験を取り上げたのかと言うと…
臨死体験の特徴的な要素の一つに、「人生のフラッシュ・バック」という現象があります。死に際に「走馬灯のように」人生を回顧する、というやつです。

この振り返りの目的は、どうも、納得のいく人生を送ることができたのか、人として生きていくべき道を生きてきたのか…などが問われることになりそうです。言葉を変えて言えば、愛のある選択をできたかどうか、という点がクローズアップされるようです。

おもしろいのは、裁判のように人を裁くようなものではない、ということです。有罪・無罪を確定するというようなものとはむしろ真逆に位置する。

そして、振り返りの結果、自分の課題を確認して、再び娑婆世界への再生を計画することもある…ということのようです。これも次回以降の話題ですね。

これらのことから見えてくるのは、どうやらわれわれには「死」というものが存在しない、ということです。その上で、どう生きていくのか。なにをして生きていくのか。意味は? 目的は…?ということになります。

「死」がない、という私の結論に、早計だと思われる方もいるでしょう。しかし、実を言うと書物で得た知識から結論づけた、というわけではありません。それらは補強はしてくれましたが、むしろ直観的な結論という感じです。私という個体が永続するかどうかというのも分かりません。

それよりも、私が出てきた生命の場(?)があって、やがてそこにまた帰っていく、という圧倒的な感覚があります。私にとって帰るべき故郷であり、源であり、目的であるような世界が、そこにはあります。かなり強い親愛の情があります。それがなんなのかは、私には正直なところ分かりません。ただはっきりと言えるのは、私にとってそれは空想とか願望のレベルではないリアリティのある世界だということです。


昨日はクリスマスでしたね。
イヴの日は仕事でしたが、まあカップルの多いこと多いこと…。私はキリスト教徒ではありませんが、どうせデートするなら教会のミサに二人で行けばいいのに、と思ってしまいます。キリストの生涯や言動に思いを馳せ、自分の生を見つめ直すいい機会ではないでしょうか。あの綺麗な讃美や独特の厳粛な雰囲気などもいいですね。うーん、頭カタイかな~。

イヴの日、ある方を介して亡父からのメッセージをいただきました。
私には孤独病(?)という持病があります。孤独感に苛まれやすいのですね。多くの人から愛情をいただいているのですが。忘恩の徒ですね。お前は一人じゃないんだぞ、というメッセージでした。クリスマスの最高のプレゼントでした。

写真は夕暮れ時の窓外の風景です。
この青い色はほんのわずかな間しか出ませんが、とても綺麗だと思っています。





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【2005/12/26 23:34 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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