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人生の終わりの時・その6
今日は新宿で飲んできました。

帰り道、新宿駅南口のサザンクロスを歩いてきたのですが、イルミネーションがけっこう綺麗でした。通行人と言えばカップルばかりなのでそれには閉口しましたが…。もっとも、当人たちは携帯でパシャパシャと写真を撮っている私を「なんだ、このイナカ者のオッサンは…」と思っていたかもしれませんが(^^j)

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先日の記事で、「自分自身を許す」「自分を愛することができない」なんてことを書きました。

改めて考えたのですが、いったい「自分自身を許す」ということはどういうことなのか。また、「自分を愛する」ということはどういうことなのか。考えてしまいました。

これらのフレーズというのは、ともすれば自己陶酔というか、ナルシシズムというか、そういうニュアンスと裏腹なような気がします。

自分勝手で人を平気で傷つけてきたような私が、そう簡単に自分を許してしまっていいのだろうか。傷つけられた相手は不快に思うのではないか。

自責の念というのは心身に毒だということは分かっている。
自分を責めていても始まらない。これからどうしていくかが問題だ。

しかし、そう切り返してしまっていいものか。
自分が相手を傷つけたという事実はどうなるのか。

そのことを凝視してみても、なにもならない。
懺悔してなるべく同じ過ちを繰り返さないようにしていくしかない。
それでも、また同じような過ちを繰り返してしまう…
そういう罪深い存在なのだと思います。

「贖罪」というテーマは、私の中で複雑なものがあります。
過ちなくして生きていける人はいないでしょう。
過ちを犯しながら、苦しんで生きていく存在。
苦しみながら、苦しまないように努力していく存在。

「自分を許す」ということは、けっして自分に甘くする、なあなあで済ませるということではないのでしょう。

自分自身を、他の人を許すとか、許せないとか判断を下せる存在ではない、ということなのかもしれません。われわれが生きているということは、それ自体ですでに許されているということ。過ちを犯す存在だけれども、それでも許されているということなのでしょう。

ただ、その過ちによって結果的に苦しむのは当の自分自身しかないわけで、だれもがどうしたら苦しまずに生きていけるのか、模索して生きていく課題を負わされているのかもしれません。



前置きが長くなりました。

バーバラ・ハリスの「臨死体験」の続きです。

ハリスが臨死体験の後にふつふつと湧き上がってきた感情というのは、「人を愛したい」という感情だったようです。それはいったいどんな愛だったのでしょうか。

「あの空虚感はわたしの中に生まれた何ものかによって満たされた。それは愛としか呼びようがないものだった。といっても、今まで考えていたような愛ではない。今までわたしが考えていた愛はシャーウィン(夫:引用者註)とわたしに結婚の決意をさせ、おたがいに相手を所有したいという気持ちにさせる、そういう愛だった。その愛のおかげで、わたしたちはおたがいに忠実だった。わたしたちが持っているいろいろなものを愛していた。子供、家、飛行機。所有するものを愛していた。地域社会に溶けこむこと、社会のために働くこと、ガール・スカウトの指導者でいることを愛した。こういう愛もみな大事なことには違いないが、今度のこの愛は新しい、体からあふれんばかりの豊饒な愛だった。そのことを考えるたびに涙がこぼれるような愛だった」(56~57ページ)

その後彼女はその愛を実践していく職業として、「呼吸管理士」という職業に就いたようです。臨床活動を通して、死を間近にした患者さんたちに自分の体験や愛を伝えていきました。その活動により、今まで味わったことのないような充足感を感じるようになったそうです。

この話は、ハリスの経験が、彼女にとってかなり根源的な経験だったということだけでなく、おそらく人間にとって普遍的な根源的経験であるということを物語っているのではないでしょうか。

簡単に言えば、愛を感じ表現し伝えていく、表していくということが、幸福や充足感といったものを与えてくれる、ということです。

恋愛や友情、子育て、親子の関係、夫婦の関係などなど、言い換えれば自分の愛をより大きく表現していく、感じていく、学んでいくための機会ということになるのではないでしょうか。そしてその多くは苦しみという経験を媒介にして、より深い愛の世界へと誘われていくものなのではないでしょうか。

感動というものは、多かれ少なかれ、愛というものに触れることによって起こってくるものでしょう。それは、人間にとって根源的な経験なのだと思います。

そういう意味では、人間というのはかなり精神的な存在だと言えるでしょう。

先に触れた「自分を許す」という話題ですが、言い換えると自分はより根源的な愛に包まれている存在である、という自覚をどこかで感ている。だからこそ、そう思えるということもあるのではないでしょうか。

抽象的ですね。うまく言葉になりませんが…

じっと耳を澄ませていると、その愛というものは、だれしも感じることができるものなのではないか-と思っています。
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【2005/12/17 23:30 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
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コメント
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自分を許すかぁ、言葉にするのは簡単だけど、普段生活してるとそうやって考える余裕がないよね(>_<)自分を許すとか、駄目な所も含めて今の自分自身を受け入れる事は大切だと思う。だけど僕の中ではまだ自分をどーやって許せばいいのか分からない(*_*)向上心を持つ事も大事だと思うから駄目な所があれば、頑張って変えていこうと思うし。でもすぐには変われないのが現実だから、つい自責の念に駆られて自棄になってしまいがちです…(>_<)暗いコメントですいません、こんな僕だけどいつか自分の許し方が分かる日が来る事を信じて今は苦悩します(笑)
by:古郡 雄馬 | URL | #L59BSP9s【2005/12/18 15:55】 [ 編集] | page top↑
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お~雄馬君、実名で来ましたね。コメントありがとう。

自分の許し方、か。俺もよう分からん。
自分で自分のことを許しているのか。その問いかけも、今はないかも。ただ、神仏に(宇宙の生命に、でもいいんだけど)許されている、という感覚はある。

一方でね、こうも言うんだ。
「どういう生き方をするかは自由だけれども、自分はなにをしたいの? どう生きたいの?」ってさ。

焦ることはないんじゃないかな。日々コツコツと積み重ねていくしかないみたいだし。

自分が「許されている存在」だとして、その上で自分を許すか許さぬかは「お好きな方を」ということなのかもよ(^^j)
それよりも「んで、次はどうしていく?」ってことでいいんじゃないかな~
by:観音寺 弘明 | URL | #-【2005/12/20 20:20】 [ 編集] | page top↑
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コメントありがとうございますm(_ _)mなんか僕は自分で自分を許すって事にこだわり過ぎてたのかもしれませんね、なかなか焦ったり辛くなる感情って切替えが出来ないけど、まずは出来る事から頑張っていこうって思いました。何をやるにしても結果ばかり気にしちゃうんだけど、大事なのはそこで自分をどこまで信じれるかという過程なんだって今日ある人から教わりました!まぁまた自分を見失う事いっぱいあるだろうけど、とりあえずまた明日から頑張ります(^-^)v
by:古郡 雄馬 | URL | #L59BSP9s【2005/12/21 02:46】 [ 編集] | page top↑
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自分をどこまで信じれるか、かあ。
うーん、そういう言い方もできるかもね。
でもこれもまた難しそうな話だね~(^^j)
俺なんか20台なんて自分を見失ってばかりだったよ…。今でもときどきあるくらいだから(><) 結果よりも、動機とかプロセスの方が大事だと思っているよ!
by:観音寺 弘明 | URL | #-【2005/12/22 21:31】 [ 編集] | page top↑
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