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腰越を歩く
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腰越の旧い街道を歩いていた。


その昔、日蓮上人はこの道を刑場に向かって歩いていた。


龍ノ口の刑場で、日蓮上人は斬られることになっていた。



イエスはゴルゴダへ向かって、どんな思いで歩いたのだろうか。


重い十字架を背負いながら。


腰越の街道を歩いた日蓮上人と重なった。



日蓮上人は、斬られなかった。


江ノ島の方面から、二つのまばゆい光が飛来し、処刑人の目がくらんだ。


伝承はそのように伝えている。


上人には、堅く熱烈な信仰があった。


そして、神仏が上人を守った。


私はそう思っている。



その跡地に立つ龍口寺の境内に、処刑失敗後に閉じこめられていたという「御霊窟」の前に立った。


直径3メートルにも満たないその薄暗く狭い小窟の中で、上人は何を思ったのだろうか。


信念と信仰。


そして感謝の思い。


上人にとっての命は、すでに自分のものでなく、自分がどうするものでもなく、ただひとえに仏にお預けされていたのだろう。



先の見えない時代である。


…いや、先は見えている。


この資本主義のシステムは崩壊する。


ギリシアの騒動は、日本の近未来になる。


すでに国家財政は破綻している。


インフレとあいまって、食料が手に入らず、混乱や暴動が起こり得る。


国内の疲弊をよそに、一方で日本の対外資産は世界一である。


誰が資産を持っているのか?


そもそも誰の資産なのか?


資本主義という機械はいずれ自滅する。



来るべき世界に向けて、固く信念を持とう。


神仏に任せ、正しい道を歩もう。


そうやって現世の荒波を超えていこう。



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【2010/05/28 22:52 】 | 旅日記 | トラックバック(0) | page top↑
江原啓之『スピリチュアル・メッセージⅡ-死することの真理』(飛鳥新社)
江原氏と、守護霊の「昌清霊」との対話である。


質問;「毎日が慌ただしく過ぎていきます。どうすれば、人生という『旅』を充実させられるでしょうか。」


昌清霊の答え;


 この現世の時は実に短いのじゃ。<中略> そのなかでぬしが充実して生きようと思うならば、要点はまず一つ。「つねに死を見つめよ」ということ。
 現世の者たちすべてが、日々死を見つめて生きるべきなのじゃ。いわば、終わりある旅、限りある旅であるということを知ることが大切じゃ。
 そして、次に、この現世の旅が終わったあと、すべてを失うのではないということ。里帰りなのじゃ。
 この現世において得られたことで、幽世に持っていけるは、感動と、経験のみじゃ。物質、または現世の地位や名誉など、物質界の方便は、何一つ持ってゆけぬ。
 現世においてどのような偉人とされても、幽世では通用はせぬ。たましいには、物質の身の丈は通用せぬのじゃ。
 すべてはたましいの経験、そして感動じゃ。何を喜び、何に泣き、何に気づいたか。その経験じゃ。
 それを日々見つめる統一された目があれば、日ごと充実、幸せを感じるはずじゃ。


なるほど。


「メメント・モリ」(死を思え)というわけですね。


さきほどニュースを見ていたら、歌手の川村かおりのブログに触れ、闘病日記を互いにブログで公開し、支え合っている人たちが映し出されていた。


闘病、もしくは看病というかなり負荷の重い体験をしている人たちの顔は、さすがに含蓄が深い。


日々なにもなく、つつがなく暮らしていては、この顔は刻まれない。


この顔を持って「あの世」に帰れるのであれば、あるいは持って帰れる可能性があるのならば、なにが人間にとって幸せなことなのか、再考を迫られる。


大過なく、ただ流されて生きるのであれば、「もったいない現世の『歩き方』」ということになるのだろう。


多くの苦難を味わった者にはそれなりの報酬が用意されている。


とはいえ、やはりある程度楽しめなければこの世に生きている甲斐もない。


「苦難の報酬」は、「あの世」への帰還を待たずとも、きっと「この世」で体感できる可能性はある。


その可能性を探っていきたい。
【2010/05/11 22:07 】 | 読書日記 | トラックバック(0) | page top↑
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