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子どもの笑顔
今年度から、家の都合で、仕事を木曜日休ませてもらっています。

家事や家の仕事をしたり、小学校1年生の子どもの世話をしていたりしています。


今日は、子どもが帰ってきてから、虫取りをしたりしていました。

アゲハチョウや、図鑑で調べたらホシミスジというらしいチョウをつかまえていました。

クロアゲハは飛行速度が速くて、なかなかつかまえられません。


それにしても、子どもの笑顔はいいですね。

こちらの気持ちも明るくなります。


人間は性善なのか性悪なのかという議論は古くからありますが、善も悪も相対的なものとは言え、深く考えず結論を出せば、性善を疑うことはできません。

子どもの笑顔を見る限りは。
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【2009/04/30 21:52 】 | 未分類 | トラックバック(0) | page top↑
陰役こそが主役
自分のやっていることを認めてもらいたい、褒めてほしい。


そういう自分を否定しつつ、否定しきれないところもある。


でも、家庭でも、職場でも、人間関係でも、そういう「認めてもらいたい」というのを前面に出すと引かれますよね。


そういうとき、「陰役こそが主役」だと思うようにしています。


目立たないけど、人からは見てもらえないけど、役に立つような働きをする。


花は自分ではなく、別の人に持たせる。


そういうことができる人は、私心にとらわれない、大我の愛の精神を持っている。


そう言うと言い過ぎでしょうか。


そんな人をこそ、深く信頼できるように思います。


そして、自分もそういう「目に見えない働き」を、そういう働きをしている人を、ちゃんと認められるような感性を持ちたい。


それが、「よく見える」ということなのだと思います。
【2009/04/29 21:41 】 | 未分類 | トラックバック(0) | page top↑
新緑と卒業生と。
昨日の夕方、6年前の卒業生がふと訪ねてきました。

卒業してから一緒に勉強会をしているメンバーでもあり、気心の知れている卒業生です。


近くのカフェ&バーでおしゃべりをしたのですが、彼氏・彼女のことでかなりアツく話しました。

相手を想うその優しさや思いの強さに感じ入りました。

だからこそ、思うようにいかなくて葛藤したり、自分の理想を求めすぎてギクシャクしたりするのでしょうが…。


彼らも、うちの学校に来るまでは、それぞれ「地獄」を抱えていたと記憶しています。

そこで苦労した分、同じ年の人たちと「話が合わない」など苦しむこともあるようですが、人の話をじっくり聞けて、相手の気持ちを感じ取ることのできる余裕や優しさが身についたようです。

それは、今の季節に重なって、冬の寒い日を超えて、みずみずしい新緑の若葉を見るような思いがしました。


卒業生と会って話すとエネルギーがもらえます。

ありがたいことです。
【2009/04/28 14:13 】 | 未分類 | トラックバック(0) | page top↑
そこにいることは必然であり、かつベストなのかも?
ベル博士といえば、電話の発明で有名ですが、ヘレン・ケラーと親交があったそうですね。


ヘレン・ケラーの『わたしの生涯』の中で、その親交の様子が回想されています。
その中で、ベル博士は、実は発明家になるのは本意ではなかったようなことが書いてありました。


もともとは音楽家になりたかったそうですね。しかし、体が弱く、果たせず郷里のスコットランドを離れてアメリカに移住。機械に凝っていて、その経緯から電話の発明に至ったとか。でも、本当は聾唖者の教育の仕事をやりたったそうなのです。


しかし、電話などの仕事が忙しくてその夢はなかなかかなわない。そんなベル博士に、ヘレンは大学卒業後、サリバン先生と人里離れたところで執筆活動をしたい、と言ったそうなのです。そのときの、ベル博士の言葉。


「あなたの仕事を決めるのはあなたではなくて境遇だよ。私たちはただ宇宙を支配する力の道具に過ぎないのだよ」


なんか、妙に納得してしまいました。


たしかに、自分の人生は自分で決めていくものですが、一方で、成り行きというか、やむにやまれず、ということでいろいろな仕事を始め、状況や立場があるようにも思えます。


それは不本意のこともあるかもしれないけど、どこかで、その状況や仕事というのは、なんらかの必要があってそうなっている、やっている、ということもあるのではないか。


そのときそのときの状況が、自分にとって、もしかしたらベストの状況なのではないか。
そこで果たすべきもの、学ぶべきものがあるのではないか。
その状況の中で経験することが、たとえそれがどんな性質のものであれ、どこか目的となっているところもあるのではないか。


そう考えると、今、自分がいる場において、一生懸命生きることが大切なんだと思います。
そして、それで十分なのだ、と。
【2009/04/25 14:03 】 | 読書日記 | トラックバック(0) | page top↑
昼のプチ森林浴
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新緑のまぶしい季節ですね。


雨上がりの一昨日、昼休みに神宮の森に行ってきました。


森の中の参道に足を踏み入れると、土と草木のしめった香りが漂ってきました。


ふつふつと湧いてくる自然のエネルギーが辺りを満たしていました。


携帯の画像ではあまり伝えられないのが残念です。


いい時間を過ごさせてもらいました。
【2009/04/24 12:55 】 | 未分類 | トラックバック(0) | page top↑
人間関係のありがたさ。
ヘレン・ケラーの自叙伝、『わたしの生涯』(角川文庫)を読んでいます。

その中の一節。


「しかし、いったん私に与えられた多くの友情のことを考えてくると、私はどうしても、人生にたいする不平などいておられなくなります。たとえ、多くが私から奪い取られているとしても、またその反対に多くが、いな、じつに多くのものが私には与えられているのです。真実そのとおりで私は自分に与えられた数人の友人たちのことを忘れないかぎり、この人生は楽しいところであるといいつづけることでありましょう」(p.225)


すごいですね…。

ヘレン・ケラーと言えば、ご存知の通り盲(見えない)・聾(聞こえない)・唖(喋れない)の人ですが、ここまで言えちゃうんですね。素直に感心します。


それにしても、誰しも平等に訪れる「死」ですが、もし自分が死ぬ段になったら…と考えると、やっぱり、自分と関わりのあった人たちのことを想います。


あのとき、あたたかい思いをかけてくれたな。信頼の眼差しを向けてくれたな。励ましてくれたな。一緒に笑ったな。泣いたこともあったな。切ないこともあったな…。私自身の愚行から、悔いや申し訳なさも感じますが、それでもあたたかい気持ちになります。ありがとう、と言いたくなります。


人間の幸せって、やはり人間関係のところに大きくあるような気がします。


【2009/04/23 09:36 】 | 読書日記 | トラックバック(0) | page top↑
スズランが咲きました。
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職場のスズランが咲きました。
とてもかわいいです。
スズランって、すぐ花が散っちゃうんですよね。
眺めていて飽きません。
妖精が飛んでいそうな気がしてきます。


花言葉は、

「幸福が帰る」「幸福の再来」「意識しない美しさ」「純粋」(花言葉事典さんより)


スズランさんは、秋に葉が黄色になって萎れていきます。


寒い冬の間、葉も枝もなんにもない鉢に、乾くと水をあげていたのですが、本当に生きてんのかな…?といつも心配しながら水やりをしていました。


毎年桜の咲く頃になると新芽がにょきにょきと伸びてきて、今くらいの時期に、かわいい花を咲かせてくれます。


今年も生きていた! 可憐なのに自然の強い生命力を感じさせてくれます。じーんと来ます。

そんなことを思うと、スズランの花言葉、なんか納得しますね。


どんなにつらいことも、美しい花を咲かせるためにあるように思えてきます。


ありがとう。
【2009/04/21 12:29 】 | 園芸日記 | トラックバック(0) | page top↑
それでも世の中は良くなっている。
連日の不景気の報道もすっかり定番になりましたが、まだまだ日本は平和ですね。


先日新宿に飲みに行ったのですが、まあ人の多いこと…。飲んでハイテンションになっている人がたくさんいました。



1929年の世界恐慌のときは、ご存知の通り、世界の列強は帝国主義的な方針でこの事態を打開しようとしていきます。


暴力的な「市場の確保」。

ない者は奪おうとし、ある者はヨソ者を入れまいとしました。

当時も今も「戦争=経済」なので、公共事業として戦争を起こし、需要と市場を創出しようとしました。


ところが現代では、そんなことを平然とやっている大国はアメリカくらいなものです。

世界の世論は、他国の侵略や大量殺戮について、かなり厳しい世論を与えるようになりました。

これまで侵略や殺戮は常態だった状況に比べると、世界史的にはかなり「進歩」していると思います。その点は。

「グリーンニューディール」なんて言っているのですから、平和なものです。


でも、戦争でメシを食っている業界の人はまだいます。

先日の北朝鮮のミサイル騒動。

あまりにも大げさでは?

あれで「ミサイル防衛システム(MD)の充実」なんて言っている人がいたら注意しなければなりません。

MDは技術的にはほとんど不可能ですし、実際北朝鮮がミサイルを撃ち込んでくる可能性はほとんどないと思います。

危機をあおって得するのは軍需産業です。

だまされてはいけません。

MDにお金を費やすのであれば、全国の母子家庭にでも手当を充実させてあげて下さい。

そちらはかなり大変な状況にあることを肌で感じています。

北朝鮮も、あの体制は必ずそう遠くない未来に崩壊します。

あのような前時代的な体制は自然崩壊するでしょう。


それはともかく、消費社会になって、モノにも恵まれて、それでもなにか物足りない…

やっぱり充実感だ、家族だ、人間関係だ…と心の方に目が向いていますね。

精神性を大切にしていく方向性は不可逆です。

その方向性からしても、貧富の格差もだんだんと解消して行くでしょう。


確実に、いい方向に向かっています。

どんなことがあっても、乗り越えていけるでしょう。

いい時代が、やってきています。
【2009/04/20 22:28 】 | 未分類 | トラックバック(0) | page top↑
シンビジュームが咲きました。
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職場のシンビジュームが咲きました。


この鉢のシンビの花を見るのは、ここ数年で初めてです。


ようやく咲いてくれました。


真冬でも屋外の軒下で過ごしていたのですが、東京の市街地というのは冬でも暖かいのですかね?

枯れずに元気に過ごしておりました。


花言葉は、

「華やかな恋」「高貴な美人」「誠実な愛情」「深窓の麗人」「飾らない心」「素朴」

ということです。(「花言葉事典」さんより)


それにしても、対照的な言葉もありますね。「華やか」と「孤独」。どちらもシンビのイメージとしてある、ということなのでしょうか。シンビでもいろんな種類がありますからね。


ちなみに、写真のシンビは、これらの花言葉からなにがふさわしいかというと…「誠実な愛情」かな、と思いました。皆さんはどう思われるでしょうか。清楚で健気な感じがしたんです。そして、芯の強さも。


それは「誠実な愛情」の美しさだと思いました。


【2009/04/18 12:54 】 | 園芸日記 | トラックバック(0) | page top↑
「慈悲」の心
仏教の根本的な精神として、「慈悲」というものがあります。


庭野日敬さんの説明で、感銘を受けました。


まず「慈」は「マイトレーヤ」というサンスクリット語の訳になる。


「マイトレーヤ」は「友」を意味する「ミトラ」という言葉から生まれたそうで、それはつまり、「最高の友情」ということを意味する。


中国人はその言葉を訳すとき、すべての人に対して友情を持つ、という普遍的な意味としてとらえ、普遍的な仁愛を意味する「慈」という言葉を当てたそうな。


それは平等の愛を示し、我が楽しみを他の人にも味わってほしい、という楽しみを与えようとする心である。


もう一つの「悲」というのは、「カルナー」という言葉の訳で、もともとは「うめき」を意味するそうです。


人生の様々な苦しみにうめき声をあげる。他の人の苦しみを我が苦しみとして感じる。そして、その苦しみを取り除いてあげたいと望む。その気持ちに「悲」という訳語を与えたとのこと。


そうすると、「慈悲」というのは、「おなじ人間同士として、おなじ苦の世界に生きているきょうだいとして、しあわせを分けあい、苦しみから助けあいたいという、同志的な友情の交流であることがわかって」くる(『人間を育てる心』p.156)。


かつて、五木寛之さんが、中村元さんの著書から、人間として同じ運命を持つ者同士としての共感、みたいなことをおっしゃっていました。


一瞬先はどうなるかわからない、不安や孤独におびえながら、煩悩にとらわれながら、人間関係で一喜一憂し、あくせく働いてはお金をもらう。病んで、老いて、そしてやがて死ぬ。


そういうはなかい存在であるにもかかわらず、誰かが成功した、幸せになったと聞けば羨んで足をひっぱり、人の不幸をなぐさめとする。


自分も弱い存在であるにもかかわらず、強がって、他の人を踏みつけて平然としている。


でも孤独であることはやっぱり嫌で、嫌われたのではないかと恐れ、人となんとかつながって生きていこうとする。


憤りもあるけれど、自分だって同じようなことをしている。


人間って弱い。醜い。でもどこかで哀れみのようなものが湧いてくる。


そういうものだと思わずにはいられません。


「慈悲」というのは、そのような「哀れみ」が根底にあるのではないかと思います。


純粋に、素直に、「慈悲」の心を生きていきたいです。
【2009/04/17 20:06 】 | 宗教&スピリチュアル | トラックバック(0) | page top↑
富士山の向こうに
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【2009/04/16 11:16 】 | 未分類 | トラックバック(0) | page top↑
愛のある限り、関係は続く
先日、実家に行ってきました。


私の結婚する前の家族なので「旧家族」と呼んでいますが、やはりいいものですね。
いい日だったな、会えてよかったなって思いました。


弟が今月に渡欧するようなので、しばらく遠くなります。


旧家族は、お互いいろいろな事情があって、会えても年に数回というくらいなのですが、「つながりの深さ」みたいなものを感じました。


いつかは皆この娑婆世界から去って、「あの世」に戻るものと考えていますが、「あの世」に戻ってからも、きっと関係はずっと続いていくんだろうな、と。愛のある限り。


なにかの本で、「愛は愛するものを引き寄せる」と書いてありました。
だから、心配事ばかりしていると、心配なことを「愛している」ということになるわけですから、心配事が現実化する。そのために、ポジティブなことを愛しましょう、ということになるわけですが、この考え方には納得しています。


ところで、死別は避けられないとしても、死別があるからこそ、その方との人間関係が進化(深化)していくのだと思いました。
生きて一緒にいると、甘えてしまって、ついグチばかりになったり、罵りあったりするものですが、死ぬとそういう相手がいなくなる。そこで、素直になったり、相手のことを純粋に想えたりするのではないかと。そうして、また「あの世」で再会したときに、生前よりもいい関係になっていくこともあるのではないかな、と。すべてがすべてだと思いませんが。


死は、そういう意味でも「救い」だと思うのです。


愛がある限り、離れることはなく、ずっと一緒にいるもの、生きているものなのでしょう。


死は一時の別れに過ぎません。見えないだけなのでしょう。
【2009/04/14 19:00 】 | 未分類 | トラックバック(0) | page top↑
『悼む人』天童荒太
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人から勧められて読んでみた。とてもいい本を紹介してもらった。傑作である。


主人公の静人は新聞や雑誌などから故人のことを知ると、その現場に行き、「(故人は)誰を愛し、また誰から愛され、どんなことで感謝されたのか」を近くの人に尋ねて回る。変人扱いはいつものこと。中には怒り出す人も。しかし、たまに故人のことを積極的に話してくれる人もいる。


静人は、故人がどれだけひどい人間だったか、あるいは無念な死だったか、というようなことには関心を向けない。あくまでも、先の3点のみを聞き込み、その人が確かに生きていたことを胸に刻み込む「悼み」の儀式を行う。


彼の家族の関わりや、その旅先で出会った人たちとの関わりが展開していくのだが、その途中で何回も泣いた。主に電車の中で読むので困った。何度正面の人に「ガン見」されただろう(笑)


この物語を通して、天童さんが訴えたいことが痛いほど伝わってきた。


先日、私が乗っていた電車が事故に遭った。カンカンカンとなにかにぶつかる音がして、電車は止まった。外を車掌が走っている。なんだろう?と外を見る人もいたが、多くは携帯をいじるか、音楽を聴いているか、本を読むか、寝ているかしていて、「我関せず」の態度を貫き通していた。


心の中でどう思っていたかはもちろん分からないが、「ふざけんなよ! 事故? 超迷惑なんだけど」っていうところなんだろう。暗澹とした気持ちになった。


今、この瞬間に一人の人が亡くなった。
しかも、電車に飛び込むくらいだから、いろんなものを背負っていたのだろう。
それこそ「迷惑」なんて考えられなくなるくらい。
そして「迷惑」としか思われず、無関心で、次の日にはなにもなかったかのように回っていく社会。
これは絶対におかしい。


だからと言って自分になにかできることでもない。その人を救えたわけでもない。
でも、その人の死を「痛く」思うことはあってもいいのではないか。
そして、自分が生きているという現実の中で、生きて関わっている人の「痛み」から、ニュースなどで流れてくる事故や事件の「痛み」まで、無視してはいけないのではないか。
そうして自分の生き方を方向付けていくことしかできないかもしれないけど、そうやっていかないと、この社会は無数の人の命を奪い続けていくのではないか。傷つけ続けていくのではないか。


故意にせよ故意でないにせよ、人は誰かを傷つけながら生きていく。
そこで責められ、自己嫌悪に陥りながら、気がついていくしかない。


静人のように、「忘れない」という愛もある。
傷つけながら、「傷つけまい」という愛もある。
人はそういう愛を欲して生きているのだろう。
その愛を与えられる側としても、そしてもしかしたら与える側としても。
【2009/04/13 13:36 】 | 読書日記 | トラックバック(0) | page top↑
桜散って命の花が咲く
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今春、子どもが無事に幼稚園を卒園し、小学校に入学しました。

その間に、2件の訃報がありました。

お一方は、幼稚園つながりの父兄の親御さん。

お婆さんでしたが、幼稚園の運動会のときに、お昼ご飯を一緒のシートの上で頂いたご縁がありました。やさしそうな方でした。


もうお一方は、職場で同僚だった方でした。

享年53歳でした。

もともと持病はもっていらっしゃいましたが、突然のことでした。


先日ご自宅に線香を上げにいきました。

葬儀には間に合わず、もうすでに骨になっておられました。

あっけないものです。


その方の気配がまだ濃厚に残るお宅の中で、ご供養させて頂きました。

帰り道、その方の面影が脳裏によみがえってきます。

あんなことを言っていたな、あんなこともあったな、あんなこともしてくれたな…と。

楽しかったこと、学んだこと、頭に来たこと、気の毒に思ったこと、今だから悔やまれることなど様々でしたが、その方には一つ、大切なご縁を頂いたことがありまして、それは一生感謝してもしきれないご縁でした。

そのことを、仏前でもお礼申し上げました。


そのご縁とは、庭野日敬という方をご紹介して下さったことです。

庭野さんは、立正佼成会を作られた方ですが、教団の是非はともかく、この方は仏教者として本物だと告白せざるを得ません。

この方の著書から、どれほど多くのことを学んだことでしょう。

その結果、どれほど人生が開けてきたことでしょう。

この不安の多い娑婆世界で、ブレない生き方、希望の持てる生き方をつかめることは、なんと幸せなことなのでしょう。


宗教団体には、私は距離を置いて生きてきました。

集団化すると、組織の論理が働いて、見えるものが見えなくなったり、偽善が生じたり、強制することが起きたりすることがよくあるからです。

だから、教団の善し悪しというのは量ってもあまり意味がなく、ただ、人間の集団の中には良い人もいれば悪い人もいる、立派な人もいればどうしようもない人もいる、ということなのだろうと思っています。

従って、佼成会の是非を問うことはあまり興味がありません。

一人の人間として、庭野日敬という人に興味を持ち、彼から多くを学んでいます。


夜道、見事に咲いている桜の木の麓にしばらく立ちすくんでいました。

この、生と死とが交錯し、終わりと始まりがあわただしく過ぎていく日々に、言葉が追いついていません。

一片の桜の花びらがひらひらと散っていきました。

枯れ木のようだった冬の桜の木は、美しく可憐な花々に覆われています。

つぼみはやがて花となり、そして一枚一枚散っていきます。

その後に、緑色した新しい葉が生えてきて、今度は花に代わって桜の木を覆い尽くします。

やがて秋に葉は黄色くなって落ち、再び枯れ木のようになって冬を迎えます。

飽きることなく怠ることなく、淡々と自然の摂理と循環に従って桜は生きている。

そして、いつか桜もその命を終える時が来る。


人の命が生まれ、やがて死んでいくのも自然の流れですね。

生きている中で、悩み苦しむ冬が来て、それを乗り越えて一歩成長する春が来て、また悩み苦しみがやってきて…

桜の木そのもののようですが、あの、ひらひらと落ちていく一片の桜の花びらが、なんとなくこの世での人の一生のようにも思えてきます。

桜の花びらが地に着いたとき、なにか役目を果たし終わったような感じがありますね。

そして、桜の木よりももっともっと大きくて、光にあふれていて、次元の違うような「大木」のもとに帰っていくのではないでしょうか。命あるものみなすべて。


悔いのないように今日一日を生きていこう。

それで十分ですよね。
【2009/04/09 22:22 】 | 未分類 | トラックバック(0) | page top↑
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