スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:-- 】 | スポンサー広告 | page top↑
追悼/伊藤和也氏
アフガニスタンで行方不明になっていた伊藤和也さん(31)が、遺体で発見された。
NGO活動として、現地で農業指導をしていたという。
アフガニスタンの人々にとって、味方でこそあれ敵ではなかったはずだ。
所属していた「ペシャワールの会」の代表、中村哲氏が、「アフガン人の半数は飢えている」という。
被害者は伊藤さんだけではない。アフガンの貧しい人々もまた、事件の被害者となった。


大変残念なことである。
犯人グループの詳細は分かっていない。
はっきりしていることは、伊藤さんも、アフガンで飢えている人々も、ともに戦争と政治の被害者である、ということである。


武装し、戦争を遂行していくためには、多大なエネルギーとお金を要している。
そのエネルギーとお金の向ける先を、武装や戦争ではなく、農業の開発やインフラ整備などに充てたら、どれだけの人々が生きていけることだろうか。


ニュースで、アフガンの子どもが農作物を手にして笑っていた。
その絵を見て、胸がつまった。
私にも小さい子どもがいる。
その子どもに食べさせるものがなく、飢えてやせ細り、死んでいく親の気持ちはどうだろう。
食べ物があれば、子どもが生きていける。
医療施設があれば、子どもが病気になっても、死なずに助けてもらえる。


子どもが与えてくれる喜びは、共にいる幸せは、なにものにも勝るものだ。
子どものきれいな瞳を見るとき、人は性善であることをだれが疑おうか?
あの純粋で、やさしい子どもたちの眼を見るとき、私たちは大切ななにかを思い出すのではないだろうか。


その「子どもたちの眼」を守ろうと志した一人の日本人の青年が殺された。
言葉にならない。


権力者たちは戦争に明け暮れ、世間はオリンピックに陶酔している。
オリンピックはまだいい。
しかし、あそこまで過剰な演出が必要だったのだろうか?
オリンピック選手を育てていくのにはお金と人手がいる。
飢えている人を放っておいてまで、スポーツ選手に投資することに意味があるのだろうか?


金メダルをとった選手に国民栄誉賞が贈られる、という。
選手は選手で立派だ。
その努力と汗は賞に値する。


しかし、私は遠くアフガニスタンの荒野で倒れた、それまで無名だった一人の青年に、この賞を贈ってほしい。


いや、国のエゴと金にまみれた国民栄誉賞でなくてもいい。
アフガンの荒野で、危険を冒して飢えた貧しい人々のために尽くして倒れた日本人の青年に、私は賞ではなく敬意を表したい。そして記憶にとどめ、同じ日本人として誇りにしよう。その形なきメダルを胸に抱いていこう。


今度の臨時国会で、インド洋の海上給油活動延期を採決するとかしないとか。
燃料代が高く、漁業関係者や運送会社をはじめ多くの日本人が困窮しているのをよそに、政府は無償で気前よく他国の軍艦に給油活動を行っている。いったいだれのための政府なのか? アメリカとの関係が険悪になって、不景気になったとしても、私は喜んでそれを受け入れよう。軍産複合体の走狗となっているあの国家に追随しているというのは、歴史上恥ずべきことであることになぜ気づかないのだろう? 


歴史は海上給油活動を継続する日本政府よりも、丸腰で現地の貧民のために尽くした一人の青年を高く評価するだろう。後生の日本人も、その青年の方を誇りにし、あるいはモデルとするだろう。


世界が平和でありますように。


権力者たちが資金とエネルギーを破壊活動に使うのではなく、一人一人の幸せのために、一つの家族の幸せのために、賢明に愛を込めて使うことができますように。


伊藤和也さん、お疲れさま。


そして、現地での活動の継続を訴えられた伊藤さんのお父様と、活動の継続の必要性を訴えられている「ペシャワールの会」の方々の、勇気と愛に敬意を表します。


スポンサーサイト
【2008/08/28 23:40 】 | 未分類 | トラックバック(0) | page top↑
2つの「予言」<その1/ジュセリーノ氏の予言をめぐって>
SA350306.jpg



最近、ジュセリーノ氏の「予言」が話題を呼んでいる。彼の予言については、
サイトを見ると当たっているのもあれば当たっていないのもあるようだ。
http://www.jucelinodaluz.jp/ 
その予言によれば、今日(8/27)、台風の被害が日本にあるかもしれない
ということ。しかし、今のところそのような兆候はない。週刊誌などでもたびた
び話題になるジュセリーノ氏だが、彼の予言をどのように考えるべきだろうか。


まず、予言を気にしやすい人というのは、潜在的に不安が常に大きい場合が
あるだろう。生活や人間関係の不安が、「予言」に投影される、というパターン
である。まあ、ジュセリーノ氏の予言はすべて当たるわけではないので、その
ことと合わせて、荒唐無稽と取り合わない人も多いだろう。


私としては、うのみにするのでもなく、かといってまったく取り合わない、という
ことでもない。具体的な災害などの予言が、まああるかもしれない、くらいには
受け止めている。


ジュセリーノ氏の意図も、ただ闇雲に人々を恐れさせたいというわけではない
らしい。人々に警告を発し、意識と行動の変革を促している、ということのよう
である。


このことは、予言を発する意図としては正当のように思われる。旧約聖書でヨ
セフが夢の解釈をしてエジプトの飢饉から救った話が思い出されるが、ジュセ
リーノ氏の予言が当たるか当たらぬか、ということではなく、人類がこれからど
のような意識と行動を選んで行くべきか、示唆を与えているものと受け止めて
いくべきだろう。


予言で「地震がある」などといわれると恐れるのは人のサガであるが、考えて
みると、人はいつ死ぬかわからない運命にある。うまく天災をよけて生きてこ
られたとしても、死そのものから逃れられるわけではない。いつかは必ず死ぬ。


そう考えると、予言というのは、人間はいつ死ぬか、どんな災難にあうか分か
らない存在なのですよ、とささやいている声のようにも思える。


これは、大事なことである。なぜなら、人は明日があるような、そして明日が続
いていくような、そんな漠然とした時間の感覚を抱いて生きているものだが、実
際はそうではない。端的に、重病の方などはそのような現実は生きられまい。
ところが人間は死を忌避するあまり、普段はタブーとして考えないようにしている。
話題に出すのも気が引ける。


ところが、死は確実に、平等に誰にでも訪れる。ましてや明日生きているとも、
だれも保証してくれるわけではない。それが現実である。


その現実に直面すると、今の生き方や考え方などを見つめ直していかざるを得
ない。果たして悔いのない生き方をしているだろうか? 「している」と胸を張って
いられる人は少ないだろう。


さらにまた、「悔いのない生き方はなにか?」ということも次には問われてくる。


このあたりは次回に書くとするが、ともあれ、「死すべき運命」というものを普段
忘れがちな私たちに対し、ジュセリーノ氏は、注意を促していると私は受け止め
ている。私たちは遅かれ早かれ死ぬということ、そして私たちが今生きている
社会に対して、どのように参加して築き上げていくか責任があるということ、価値
のある、意味のある生き方はなにか、ということ……。


次回以降はそのあたりを考えながら、J・レッドフィールド氏の『聖なる予言』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4042693016/namakemono0c-22
のことにふれてみたい。この著書は、いわゆる2012年問題、アセンション
の先駆的な「予言書」であると、私は思っている。
【2008/08/27 00:50 】 | 宗教&スピリチュアル | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
高尾山薬王院、参詣。
今日、墓参りの帰り、高尾山薬王院に参詣した。
古くから修験道のメッカとして信仰されてきたことは聞いていた。
ケーブルカーで登り、さらに薬王院に向かって歩く。その清澄な山の気が肌身に伝わってくる。


ご本尊は「飯縄大権現(いづなだいごんげん)」。以下、HPの引用。


更に寺伝は、南北朝時代、永和年間(一三七五~七六)に、京都・醍醐山より俊源大徳(しゅんげんだいとく)が入山し、高尾山中において勇猛精進し、不動明王の御宝前で真言密教の秘法・八千枚の護摩供を修して、飯縄大権現(いづなだいごんげん)を感得したと伝えております。


なるほど。醍醐寺は去年参拝させていただいた。川崎大師も私の好きなお寺だが、成田山新勝寺とあわせて、真言宗智山派の関東三大大本山とのこと。ご縁をいただいた模様。


私の今生でのテーマの一つは「里の行」。現世は道場。仕事において、家庭において、修行を積むことが目的の一つらしい。


修験道で人気のない自然の中を修行する孤独というのはどのようなものだろうか。それはそれで人恋しくなるものなのだろうか。知る由もないが、今の私の課題は、人の中にいるときの孤独である。


しかしそれは多かれ少なかれ現代人の共通する孤独のように思える。そういう孤独を抱えた人間の起こす犯罪として、先の秋葉原の通り魔はまだ記憶に新しい。彼も人間の中にいたが孤独だった。


諸富祥彦氏は『孤独であるためのレッスン』(NHKブックス)で、孤独を深めることこそが現代に必要だと逆説的にいう。人間関係や社会性が大切なのはいうまでもない。しかし、それだからこそ、孤独を大切にしなければならない。孤独を知る者こそ、人間関係を本当に大切にできる、と。


たしかにそれはそうかもしれない。孤独があって、人の温かみがわかる。それは古典的な法則だ。だから、孤独を抹消しようと躍起になるのではなく、視点を変えればいい。この孤独からなにを知ることができるのか? 自分はなにを求めているのか? 


孤独だから、人は人を求める。しかし、ずっと一緒にいれるわけではない。また、すべてをわかってくれるわけではない。しかし、その限界をわかっていればこそ、その時の人間関係をかけがえのないものとして過ごせるのかもしれない。


別れの痛みによって愛の深さを知る。それは避けられない。諸行無常を思い起こすとき、毎日が大小の別れの繰り返しだということに気づく。今日この人と会うのは今生では最後かもしれない。そんな日
常を送っているというのが真実だ。明日にはどうなるか、だれにもわからないのだから。


だとすれば、取り立てて変化のない平凡な毎日に見えたとしても、諸行無常という風は一瞬一瞬をかけがえのないものに映し出してくれるスクリーンなのかもしれない。


その一瞬一瞬を素直に、まっすぐに生きること。それはとても勇気のいることだ。そうやって一瞬一瞬を生きていくのは理想だが、そうできないのが現実というもの。


その理想と現実の狭間で、人間は成長していくのですね。
そして、諸行無常を知ること。その故に、身口意の三行に注意深くあり、それらを自然の善に近づけていくこと。
それを仏教では智慧というのでしょうね。
【2008/08/13 22:55 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
| home |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。