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村上春樹 『ねじまき鳥クロニクル』③
新緑の季節ですね。

先日、神宮の森を散歩していたら、モミジの新緑に見とれてしまいました。その鮮やかなこと! つややかな黄緑色でした。写メを撮ったのですが、うっかりしてアップできる容量を倍近くオーバーしてしまい、アップできないのが残念です。池のほとりには常緑樹の濃い緑色に混じって新緑の色が見え、同じ緑色でもこんなにバリエーションが富んでいるのかと今さら「発見」しました。視点が変わると景色も変わるのですね。

『ねじまき鳥』の続きです。
第1部の3~4章で、二人の予言者(?)が登場します。
一人は「加納マルタ」という若い女性。
もう一人は本田さんという老人。
もっとも、加納マルタ自身は、物語の中では自分を予言者ではない、と言っているが、私の理解のカテゴリーで「予言者」としておきます。
この「予言者」の存在も『マトリックス』と似ているんだよな…。

それはともかく。
加納マルタという女性は、自分自身を浄化するべく、かつてマルタ島で修行していたのですね。マルタ島に霊水が出るところがあって、そこの水を飲んで修行していた。彼女のエピソードはおいおいに語られていくのですが、まあ、彼女にもいろいろあって、生まれ変わりたかったのですね。

彼女と主人公のオカダさんとの会話で印象に残ったところ。
「…ものごとの本質というものは、一般論でしか語れない場合がきわめて多いのです」という加納マルタの言葉(82ページ)。これはなるほどなあ、と思いました。
私も時おり易を立てるのですが、卦は一般論で出ます。それを自分の状況や文脈に合わせて、あとはインスピレーションで解釈する。
易占に限らずとも、古人の言葉とか諺、箴言などは、広く言えば一般論と言えなくもない。だからこそ普遍性を持つのかもしれません。一般論だからこそ、個々具体的なそれぞれの状況で、解釈の余地が生まれる。

一方の本田さんという老人は、ユング派的な言葉で言えば「老賢人」のイメージに近いように思います。
彼は、はっきりと主人公に言う。法律の世界(主人公のオカダさんの以前の生業)は合わない、と。
法律の世界というのは、陰陽のはっきりした世界。いや、それをはっきりさせていく世界。言い換えると、形なきものに命名して、細分化していく世界。

しかし、オカダトオルはその世界への疑問を抱いてしまった。今までのように「水」が流れなくなってしまった。世界の解体。それは言葉の世界の解体でもあったわけです。

このあたりは、禅の世界にも通じていくように思います。
禅の世界では「父母未生以前」と言うこともあるようですが、要するに、名前のつけられる前の世界―今、世界を認識しているその枠組みの、認識という作用を止揚した世界を見よ、と。逆にその世界から「普段認識している世界」を見たときには、それは虚妄、虚仮の世界に見える、ということなのでしょう。

どうも言葉にするのが難しいな…。

この「難しさ」に、テーマがあるとも言えそうですが。
ややこしい話ですが、名前がつけられる前のなにかがあって、そこにたとえばXという名前をつけた途端に、もとからXが存在していたかのように錯覚してしまう。

たとえば「馬」という言葉があるけれども、変な言い方だが「馬」が存在するわけではない。たまたま顔が細長くて四本足の動物を「馬」と抽象化しただけで、「存在」しているのは、「この馬」だったり「あの馬」だったりと、個別具体の形でしか存在していない。

それを勝手に人間が「馬」とカテゴライズして、言葉(認識)の世界に「存在」させている。

まあ、この働きによって、論理的思考や抽象的思考を発達させたり、想像力を膨らませたりしてきたわけですが、一方で幻想を実体化させてしまったわけです。

この作用を時の為政者は巧みに使うわけですね。
たとえば「愛国心」なんていう言葉がありますが、「国」という概念はきわめて曖昧なものです。歴史的にたどっていけば、「クニ」という言葉は、村落レベルの集合体を指す言葉として使われていた時代もあったようです。その規模がだんだん大きくなっていき、今で言う県の大きさになり(「筑紫の国」とか)、現在の日本国の範囲になる。第二次大戦期には、一部では台湾や朝鮮半島も「日本国」と表記されていたこともあったでしょう。

そのように「国」という概念は時代と共に変化している。
日本という国のイメージも当然変化しているでしょう。

つまり、実体があるのかないのか分からないようなものに、名前をつけることによって、統合原理としていくわけです。しかも、その名前にはプラスイメージを付与したいがために、必然的にマイナスイメージを持つ名前を持ち出さなければいけない。

朝鮮半島や中国における「日本」、欧米における「テロリスト」。中東諸国における「欧米」。
その際、自分たちの国の名前は、正当性のある清く美しいものとしての「神話」を付与されるわけです。
その神話は、たとえば「ジハード」だったり、「大東亜共栄圏」だったり、「テロとの戦い」だったり…。
自分自身を正当化するということは、自分自身の過失を見ないようにすることとセットになってしまうんですね。そのとき、「名前」だけが先走っていき、「現実」が置き去りにされていく。名前と現実(実体)がどんどん乖離していく。

それが、物語の中では、オカダトオルという主人公にとっての「世界の解体」であり、まさにそれが始まろうとしているということなのだと思います。

別の面から言えば、現実(実体)の変化に言葉(名前)が対応しきれなくなっていくとき、乖離が激しくなっていくとき、言葉(名前)の変更を余儀なくされていく。それは世界の解体と再構成ということになるが、体験としては、不安や苦といったものに苛まれるという経過をたどる。

昔は「元服」という便利な制度がありましたよね。イニシエーション。幼名「竹千代」が「元康」になる。名前も髪形も服装も変わる。これは、アイデンティティの変化ということでは便利な制度だったと思うのです。

子どもが大人になっていけば、体だけではなく、当然精神面も変化していく。元服のように、名前から格好から変わってしまうのであれば、「変化(成人)した」ということを自他共に認めやすい。
しかし、イニシエーションが消滅した現代では、その目安がない。なにが大人でなにが大人じゃないのか、はっきりしない。酒やタバコは大人の特権ではない。子どもだってやろうとすればできる。
そんな時代に、「大人になる」ことの難しさがある。
子どもからすれば、「いつまでたっても子ども扱いだ」と不満を言うし、親からすれば「まだこいつは大人になれない」なんて不満を言っている。ラインが不明確だから、お互い苦しいわけです。

今の時代、よほどできた親でない限り、子どもの方が自覚的に「大人」になっていくしかないと、私は思います。

話がだいぶ逸れましたね。
そうそう、本田さんという予言者の話。
彼は、オカダさんにヒントを与えるんですね。
世界の解体に、どう身を処していけばいいのか。
直接的には教えてくれません。やっぱり「一般論」なんです。あとは自分でやっていかなければならないんですね。

「大人になる」ということは、先人も先輩も社会もあてにすることなく、親も頼ることなく、自力で探し求め、つくりあげていかなければならないのでしょうね。

それも言葉(名前)の世界の話なのかもしれません。
現実(実体)の変化に、ふさわしい言葉をどう見つけていくのか、ということなのでしょう。
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【2006/04/22 00:58 】 | 読書日記 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
村上春樹 『ねじまき鳥クロニクル』②
このところ心身の調子悪く、苦しい日々が続いていましたが、ようやく復調してきました。

調子が悪いときというのは、ちょっとした人の言動でも頭に来たり、落ち込んだり、傷ついたりするので厄介ですね。自信なく生きていくつらさ。できれば人と会いたくないときもありますが、所帯があればそういうわけにもいきません。八方ふさがりのとき、状況に身を任せて抵抗しないようにしています。無理にあがくとますます墓穴を掘っていくので。

さて、墓穴からちょっと這い出してきたところで…『ねじまき鳥クロニクル』ですね。

私にはきちんとした文芸批評する能力はないので、感想めいたものを書いていこうと思います。

物語は、平穏な日常を突き破るような、一本の怪電話から始まります。「お互い分かり合えるために、10分間時間がほしい」という、謎の電話。もちろん誰だか分からない。

余談ですが。
このあたり…異次元の世界と電話でつながっていることや、構成なんかが、なんか映画の『マトリックス』に似ているような気がしているのは、私だけでしょうか。製作時期としては村上さんの方が早いと思いますが。彼の本は海外でもよく翻訳されるらしいので、マトリックスの作者にインスピレーションをなにかしら与えたこともあるかもしれません。あるいは単なる偶然かもしれませんが。

ともあれ、主人公はオカダトオルという、失業中の主夫。
彼は、失業前は法律事務所に勤めていた。「普通に」働いて生きていくこと、そして「普通に」結婚生活を営んでいくことに、懐疑を抱くようになっている。

家計を賄う働き手の妻クミコと、ある晩、ちょっとした諍いが起きる。そのとき、クミコは次のように言う。

「あなたは私と一緒に暮らしていても、本当は私のことなんかほとんど気にとめてもいなかったんじゃないの? あなたは自分のことだけを考えて生きていたのよ、きっと」(49~50ページ)

「僕」ことオカダトオルは、クミコは疲れていたのだ、体調が悪かったのだと思う。しかし、すっきりしないものが残る。

「…そしてその奥には、僕のまだ知らないクミコだけの世界が広がっているのかもしれない。それは僕に真っ暗な巨大な部屋を想像させた。僕は小さなライターを持ってその部屋の中にいた。ライターの火で見ることが出来るのは、その部屋のほんの一部にすぎなかった。
 僕はいつかその全貌をしることができるようになるのだろうか? あるいは僕は彼女のことを最後までよく知らないまま年老いて、そして死んでいくのだろうか? もしそうだとしたら、僕がこうして送っている結婚生活というのはいったい何なんだろう? そしてそのような未知の相手と共に生活し、同じベッドの中で寝ている僕の人生というのはいったい何なんだろう?」(57ページ)


日常を打ち破る小さな出来事の数々。
怪電話、クミコの可愛がっていた猫の失踪。クミコがいつの間にか身につけていた、見たこともない魚の金のイヤリング。牛肉とピーマンの炒め物が実は嫌いだった、と騒ぐクミコ…。

非日常的な出来事というのは、日常という既成の枠を破っていく前兆、前触れであることは、納得できるような気がします。普通、不安になりますけどね。

特に、自分自身が変わっていくとき―それは並行して人間関係も変化していきますが―、今まで黒く見えていたものが黒でなくなっていくというか、当たり前だと思っていたものが当たり前でなくなったり、見えてなかったものが見えてきたりする。

「僕」は、気づいてしまったんですね。理解していたようで、実はクミコの一部しか分かっていなかったのではないか。

ふだん、日常の関係で、「この人はこういう人」とお互いに心の中で認識し合っているものですが、それでお互い分かった気になっているけれども、ここでは根本的な問いが投げかけられている。「分かり合う」って、なにを「分かっている」のか。それは「本当に分かって」いるのか。

これはある意味厳しい問いです。
夫婦なら、一番の理解者は伴侶であってほしいし、またそうであるはず。またアイツのことは俺がいちばん分かっている、と自負している。
ところが、そうじゃないかもしれない。
逆に近くにいればいるほど、相手が見えなくなってしまうことだってありうる。

相手を理解する、というのは、おそらく永遠の課題でしょう。相手から発せられる言葉、表情、態度、行動。こういうものは、いわばオモテの部分。その背後にある感情、動機、欲望、コンプレックス。それはウラの部分。
じゃあ、そのウラが分かったからといって、相手を「分かった」と言ってしまっていいのか。その「ウラ」だけ見れば、おそらく人間不信に陥ってしまうことでしょう。なあんだ、いいこと言ってばかりいるけど、一皮むけば人から仰ぎ見られたいだけじゃねえか。本当は虚栄心の塊で、寂しいだけなんだ…なんて具合に。実際、それで人間不信になっている人もよくいる。かく言う私自身、何度となくそういう危機に陥ってきましたし(笑)

ところが。
さらにその奥に、なにかあるのではないか。あると信じたい、ということもありますが。
上記で言う「ウラ」の部分も、実は「オモテ」の階層に属するものなのではないか。
このあたりになってくると、宗教の世界に入ると思います。
端的に、仏教的な言葉で言えば、「仏性」ということになるでしょう。なるほど人間は利己心の塊のような存在であるが、その奥には人のためになにかをしてあげたい、という慈悲の心が埋まっている。ただ、その発現の度合いが低く小さいだけだ、みたいな。

もうこれは、信じる・信じないの世界でしょうね。
少なくとも私にとっては信じないと生きていけないので、信じています(笑) 現実的には、仏性なんてあるんかいな!なんてグチりたくなる日常ですが…。なんてサイテーのやつだ、という人の中にも、仏性を見出せるような修行を実行中です。仏性と言わずとも、まあありていにいいところとか、無私のところとか、素直なところとか、そういうところですけどね。また、そういうところを意識するようにしていかないと、日常的におつきあいしていかなければならない関係であるのなら、こっちがつらくなりますからね。こちらの嫌悪感が高じれば、自然に相手にも伝わってよけい嫌悪な関係になるでしょうし。

「分かり合う」というテーマに戻ります。
日常というものは、絶えず変化していく宿命にある。
どんなに堅固な日常のパターンであろうとも、必ず変化をきたしていく。その変化の前兆は、非日常的な出来事である。
人間関係も、当然その変化の洗礼を絶えず浴び続けることになる。「諸行無常」ということですね。

言葉を代えて言うと、「こうだ」と思い込んでいたものが「こう」ではなくなっていく。そのプロセスにはかなりの不安とストレスが生じるはずです。「こうだ」と思っていたのものが、自分の理解を超えて未知の変化を遂げていこうとするのですから。

でも、人間はある程度、「世界はこうだ」というものがないと生きていけないのも事実。そうすると、「こうだ」という世界の理解なり解釈なりは、絶えず修正され続けていくものと覚悟するしかない。「こうだ」に執着すると「こうじゃなきゃいけない」になり、それは「苦」となる。

人間関係でこれやると最悪ですよね。
「お前はこういうやつだろ」とか「こうじゃなきゃダメでしょ」というような。
ある程度、相手に期待するというのは当然ありますけどね。こうあってほしい、というのは。でも、あくまでも、その期待をどう相手が受け止めて生きていくのか、というのは、相手の現実をそのまま受け止めないといけない。そうしないとうまくまわらない。厄介ですねえ。
身近な人だから、「こうあってほしい」と望んでしまう。
でもどんな姿でも受け入れる、という姿勢も、ときにはそれ以上に大事。

「相手が分かる」というのは、その相手の希望と現実を「分かる」ということなのかな。
さらにはその奥にあるものまで「分かろう」とすれば、これは容易なことではありませんね。

くれぐれも、相手を「分かった」つもりにだけはならないようにしていきたいものです。それをやっちゃうと、相手への理解もそこで止まってしまいますからね。


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もう桜の花もだいぶ散ってしまいましたねえ。
今はチューリップがきれいに咲いてますね。
木々の新芽の成長を見るのも楽しみです。
【2006/04/14 21:47 】 | 読書日記 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
村上春樹 『ねじまき鳥クロニクル』①
いよいよ新年度、4月に入りましたね。

昨日だったかな、たまたま夜にTVを見ていたら、爆笑問題の司会で討論番組をやっていました。国家予算の、いわゆる「特別会計」について取り上げていたのですけれども、あれはすごいもんなんですね。通常の一般会計の数倍の規模の予算が、なんと公務員の一存で決められしまうらしい。

最近防衛施設庁の談合疑惑が取り沙汰されていましたが、氷山の一角なんでしょうね。特別会計の予算を投じて、国民には利益の少なそうな施設や事業に費やされているらしい。手引きした担当の公務員には当然「見返り」もあるでしょう。

一方、教育基本法の改正では、「愛国心」を条文に盛り込むがどうかで議論がなされている。教育現場では、とくに公立校において、日の丸・君が代の強制という形だけの「愛国心」が押し付けられている。逆だ。愛国心があれば国旗も国歌にも自然に敬意が湧いてくるはず。当然、愛国心はあっても日の丸や君が代は嫌いだ、歌いたくないという人もいるだろう。それはそれで認められていい。

ちなみに、私は国旗には敬意を表するし、君が代も歌う方だ。国の意図とは別に、私なりの愛国心の表現として考えているから。それは強制されて歌うか歌わないかの選択を迫られる性格のものではない。強制されれば、伝統的宗教でしばしば見られるような、教義や儀式の形骸化、形式主義化という弊を「愛国心」においても免れられないだろう。

私腹を肥やしている官僚と、彼らをかばおうとしている一部与党の方々にこそ、「愛国心」教育が必要なのではないか。官僚や議員という仕事は、それでなくても人一倍私心なく従事しなければ、その職務をまっとうできないはず。

しかし、情けないのは、そういう政治家を選出しているのはまぎれもなく私たち国民だということ。その点については、政治家を非難することは的外れである。「政治家を見ればその国民のレベルが分かる」とよく言われるが、投票を棄権したとしても、彼らを選出したことには変わりなく、その結果をわれわれは甘受しなくてはならない。

……こんなことを書くつもりはなかったのですが、つい筆が走ってしまいました。よほど頭に来てたのかな。最近税の納入が重なっていたからかもしれない(笑)


さて、読書日記。

春樹さんの『ねじまき鳥クロニクル』は、ブックオフの100円コーナーをこまめにチェックして、足掛け2年ほどでようやく全3巻揃ったので、ようやく読み始めたという次第です。


春樹さんを読むのは、これが3つ目かな。

最初は『ノルウェイの森』。大学時代だったかな。気になって読みましたよ。作品の中に繰り返し登場する、フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビイ』。よう分からんかったけど(笑) ついでにビートルズも借りましたねえ、CDレンタル屋さんで。

次に『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』。似たような構成が、手塚治虫の『火の鳥』に確かあったな、と思いながら読んでいた。おもしろかったけれども。

春樹さんの文章は、まあ読みやすいこと読みやすいこと……。ちょっと幻想的なタッチで、地に足が着いているような着いていないような、そんなファジイな世界の描き方は天下一品。軽いのか重いのかも紙一重。そういうところも凄いなと思う。

今回は、話の枕を書いただけで終わりそうだな……。

次回以降、コツコツと感想を書いていきたいと思います。


最近、メンタル的には苦境が続いています。原因か結果かは分かりませんが、公私とも取り巻く環境に苦しく感じることが多い。

ある朝、夢うつつのときにこんな言葉が響きました。
それを書き留めておこうと思います。

苦を経ることなしに楽に至る道はない。
苦は安楽に至る王道である。
苦によって人は気づき、鍛えられ、美しくなる。
苦によって人は円くなり、大きくなる。
余計な重みは苦によって溶け剥がされていく。
どうしてお前は苦を厭うのか。


「スイマセン」と思わずつぶやいている私がいました(笑)

20060405231448.jpg


写真は、先日近くの公園で撮ったものです。
前の晩に雨が降って、その日の朝は塵も落ち着いて格別澄みわたっていました。
ひときわ透明感のある青い朝の空を背景にして、桜の花が静かに舞い落ちていく様に、思わず言葉を失いました。携帯で写そうと思いましたが、画面を見てあきらめました。到底その美しさは写真に撮ることができません。

この美しい日本の国に生まれてよかったと思いました。

その美しさを表現できないと文句を言いながらあきらめきれずに撮った写真です(笑)
【2006/04/05 23:21 】 | 読書日記 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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