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養老孟司 『超バカの壁』
養老さんの本は、初めて読みました。
養老さんと言えば、『バカの壁』がベストセラーになりましたね。今回はその続編のようなものらしいです。

巷間でもてはやされている本はどうしても読む気がせずに手を出さないのですが、今回は義母さんからたまたまお借りしたので、読んでみた次第です。

全体としては読みやすかったです。随所に解剖学からの知見なども盛り込まれていて、説得力もあった。かと言って物質主義的ではなく、どちらかというと精神性を重んじるような印象を受けました。

卑近な話題から天下国家に至るまで、話題は多岐に渡っているのですが、今回は次の指摘を取り上げてみたいと思います。

「そもそも自分というもののとらえ方が西洋人と日本人とでは違います。かつての日本人と明治以降の日本人は違うといってもいいでしょう。つまり本来は西洋人の「I」と日本人の「私」は実は違うものなのです。それは言葉を見ればわかります。
 関西では相手のことを「自分」と言います。ここからわかるのは己を相手を同一とみているということです。
 関西に限った話ではありません。時代劇で江戸の商人が自分のことを「手前ども」というのをご覧になったことがあるでしょう。これが下町でけんかが起これば「手前(てめえ)、このやろう」という。商人の手前は自分のことですし、けんかの時の手前は相手です。
 同様の例は他にもあります。侍は「おのれ自身」と自分のことをいうし、かっか頭に来て、刀振り回して「おのれ!」という。侍は自分にハラを立てているのかというと、別にそうではない。後者はいうまでもなく相手のことを指している。
 どうして日本語ではそんなことが可能なのでしょうか。根本に、自他の区別に対する無意識の本質的確信というものがあるからです。それは簡単にいえば、いちいち意識しなくても(つまり言葉にしなくても)、自分というものはいるのだということに確信を持っているということです。
 逆に言えば自分自身と他人の区別が無意識の段階でまではっきりなされていれば、そのときの都合で表現は変えても構わないのです。いちいち「自分は自分である」「俺は俺である」ということを言葉で明確にしなくてもいい。区別がはっきりしているからこそ、言葉は問題ではない。だから両方の言い方ができる」
(37~38ページ)


日本人は自分というものが希薄である、主張しないなんて言われることもありますが、養老さんに言わせれば、逆に無意識のレベルで自分というものがはっきりしているからこそ自他をいちいち明確に分けることをしない。

よく「自分がよく分からない」なんてことを聞いたりしますが、実は心の奥底では分かっているのかもしれませんね。それが、日本的な集団のつながりだと、ついつい自分を抑えて周りに合わせてしまうものだから、それが常態化したりすると、本当の自分の気持ちや意思が見えなくなってしまう、なんてことも起こってくるかもしれません。

周りに合わせていれば、仲間はずれにされないで済むし、それゆえ孤独感も感じないで済む。しかし、自分を偽る、抑えるというストレスは抱き合わせになるかもしれない。

一方、自分の意思や感情に重きを置くと、集団への違和感や孤立感は避けられないかもしれない。「あいつは変わったヤツ」と見られ、敬遠されがちになる。ひどい場合には陰口まで叩かれるかもしれない。

私はどちらかと言うと後者のタイプの人間かもしれません(笑)
私の場合、自分抑えすぎるとストレスになりやすい方なので、集団への適応で苦労するのはまあ仕方ないかと諦めています。我が強いのですね。

でも、私は、どんな人でも、ときには一人になってまわりの流れからちょっと外れたところに立つことは必要なことだと思っています。周囲と距離ができることで、自分の方向修正ができる余地が生まれることがあるように思います。

日常という範囲に限らず、さらには世間というところからも離れたところから自分を見つめてみることも大切ですよね。
GPSで自分の立ち位置を確認するのに、宇宙空間を漂う衛星を経由するように。世間に戻りたくないときもたまにありますが(笑)


上記の引用箇所について、仕事柄親子関係の問題ではまさにこのことが焦点になることもあるのかな、と思います。
子どもは親から自立していこうとする。親はまだまだ子どもだと思っている。
子どもからすると、親があれこれ言ってくるのは領空侵犯に思えてくることもある。親は心配で言っていても、子どもの方は自分は信用されていないんだと受け取ってしまう。
時期的には、親も「私はこう思うけどね」と本人の意向を尊重してつきあってあげる方が、うまく回転していくことが多いようですけどね。親からするとときには眠れないほど心配になることもあるようですが。本人としては「私」を練習したい時期なのだと思います。


養老さんは、原理としてはっきりさせるところとそうでないところ、こだわりをもつところともたいないところなど、非常に柔軟に物事をとらえていこうとするので、たいへん大人だなあという印象を持ちました。ざっくばらんに語るので、誤解も多いかもしれません。物事を断定しているようでしていないところが面白いところでした。

休日の大師公園(2006)
 休日の大師公園(2006)
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【2006/03/23 01:14 】 | 読書日記 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
春分の日に
年度末、なにかと忙しく、つい更新が滞りがちになってしまいました。ここ何日か、春一番に見舞われていますね。街を歩けば、木々の新芽や花々の鮮やかな色彩が目につくようになってきました。

年度末と言えば、出会いと別れの季節でもありますね。
職場でも卒業生と新入生の出入りが頻繁です。

先日、あるお子さんが亡くなったことを知りました。まだ13歳ということでした。

このあいだ、倫理の授業で世界の大きな宗教の紹介をしたのですが、教科書に従うと、仏教のところで「生老病死」が「苦」であることをお釈迦さんが説いた、という。
「苦」とは文字通り「苦しいこと」ですが、原義には「自分の思い通りにならないこと」という意味もあるそうです。
たしかに、「生老病死」は自分の思い通りにはいかない、「苦」ですね。

どうしてある人は長生きして、ある人はそうではないのか。
またある人はやさしい親のもとに生まれ、ある人はそうではないのか。
ある人は容姿端麗に生まれ、ある人はそうではないのか。
ある人は裕福な家庭に生まれ、ある人はそうではないのか。
かつて、これらの疑問に私は悩まされてきました。

紆余曲折の末、今の時点では、「人はある程度自分の人生をプログラムして生まれてくる」という考え方に落ち着いています。その「プログラム」の中に、寿命というのもだいたい決めて(決められて?)生まれてくるのだと思います。自ら死を選ぶ場合はこの限りではありませんが。

命というのは、「この世」だけにとどまるものだとは思っていません。私たちはどこからかこの世界にやってきて、また去っていくのだと思います。命の流れというのは、とどまることを知らないものなのでしょう。

おそらく何回も生まれ変わっているでしょうが、その繰り返される「この世での生」を通して、人はなにかを学び、成長し、目的を達成していくものなのだと思います。

「生きている意味」や「目的」などは、人から教えてもらうものではなく、ましてや学校で教えるものでもなく、自分で納得のいく答えを探さなければいけない性格のものなのでしょう。今の時点で、少なくとも私自身に限ったことで言えば、「私にとっての生きていく意味」は比較的はっきりしているように思います。今後それがどのように変わっていくのか、自分でも分かりませんが、おそらく大きくは変わらないでしょう。

蓮如さんの「御文章」ではありませんが、「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身」という、はかない存在ですね。人というのは。私でさえ明日には、次の瞬間には、どうなるか分かりません。生きているという保障はありません。

だとすれば、この一瞬一瞬をどう生きていくのか。それしかないのではないでしょうか。

業の深い、煩悩熾盛(しじょう)の私ですが、「かくありたい私」を見つめながら、それに従って生きていきたいように思います。私自身にとっては、私の内にある、あきれ返ってしまうほどの些細なエゴイズムとの戦いの日々なのですが(笑)

先の他界した女の子のことですが、この場を借りてご冥福をお祈りしたいと思います。新たな出発に向けて、光の中を導かれていきますように。


話は変わりますが。

先日都庁のギャラリーで展示されていたpatoさんの作品をアップしようと思っていたのですが、データの入っていたSDを、うっかりして全部フォーマットしてしまいました(涙) 残念! なかなかおもしろい作品だったんだけどね。

別の日に、原宿のギャラリーで展示されていた卒業生の作品も見てきたのですが、こういうアートという表現方法を持っている人って羨ましいですね…。もちろん、そのツールを磨いていくのにはそれ相当の努力を積み重ねてきたのでしょうが。人はみな、アートという方法に限らず、自分自身を表現しようとして生きているのだな、と改めて思いました。

私はこの限られた一生の中で、いったいなにを表現していけるのだろうか。表現していこうとしているのだろうか。

「意味」への問いなんていうものが、生じる隙がないほどのものを表現していけると最高ですね。


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 富士の夕景(春)(2006)
【2006/03/21 10:12 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
「世界らん展」に行ってきました
花粉症の季節ですね(涙)

「世界らん展」のチケットをいただいたので、最終日の先月26日に行ってきました。冷たい雨が降っていたにもかかわらず、会場(東京ドーム)は多くの人で賑わっていました。

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会場内にはたくさんのブースがありましたね~。
会場に入るとまず出くわしたのがカリヤザキさんの作品ですが、人が多くてシャッターチャンスがつかめない…

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最初西洋ランのコーナーをずっと廻ってきました。
胡蝶蘭が見事でしたねえ。

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このシンビジューム(だと思うのだが…?)の色が個人的には綺麗だなあ、と。

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まあ、よくもこんなに見事に咲くもんですね。そんなのがズラーっと並んでいたわけです。

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でも、やっぱり私は東洋ランの方がしっくりくるんだなあ…。

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こういう質素な作品空間が好きですねえ。

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とくにこちらの方の作品。水墨画との取り合わせがシブい。

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鉢もいいんですよね。

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こういう寄せ植えもいいですね。

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意外と気に入ったのがこの作品。

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なんか今回は画像ばかりになってしまいましたね。
まだ園芸道は日が浅く、美術館に行くような感覚で見てきましたが、総合芸術っていうのかな。色、形、香り、空間。別世界に行ってきたような、そんな感覚でした。

会場の一画で花や植木が即売されていて、市場のセリのような雰囲気で人々がひしめきあっていて、一気に現実に引き戻された感じでしたが(笑)
【2006/03/04 23:39 】 | 園芸日記 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
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