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「菜の花忌」に参加!
昨日、司馬遼太郎さんの命日にちなんで毎年行われている、「菜の花忌」に行ってきました。日比谷公会堂にて。

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ご夫人の福田みどりさんが開会に先立ってご挨拶。

第1部…第9回司馬遼太郎賞、フェローシップの贈賞式。
司馬遼太郎賞は北方謙三さんの『水滸伝』。スピーチもなかなかおもしろかったです。

第2部…「『坂の上の雲』-日本の青春」と題してのシンポジウム。

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司会はNHKの古屋アナ。パネリストは井上ひさし、関川夏央、芳賀徹、山崎正和の各氏。なかなか壮観でした。内容は近々紙面にも出ると思います。5月にNHKで放映するそうです。詳細はそちらに譲るとして…

司馬さんのスタンスや小説技法、テーマなどについて、ああでもない、こうでもないと論じておられました。

ちなみに、『坂の上の雲』という作品は、正岡子規、秋山兄弟を主人公に据えながら、日露戦争前後の時代を描いた作品です。

パネリストの諸先生方も仰っていましたが、この作品には明治という時代に生きた人間の明るさ、そしてはかなさみたいなものがある。
司馬さんは、その時代を懸命に生きようとした人間に対する「いじらしさ」を持っていた、というようなことを井上ひさしさんが指摘しておられましたが、なるほど、と思いました。

日露戦争は国運を賭けた綱渡りの戦争でしたが、かろうじて日本の国益を守ることができたものの、その辛勝に日本人が浮かれてしまい、物事のリアリティよりも観念が先立つようになってしまった。それは皮肉にも、後の日本の悲劇(敗戦)の伏線となってしまった…。

『坂の上の雲』が掲載されたのは1968~72年。高度経済成長末期ですね。その「意味」についても話題になりました。

私なりの言葉に整理すると、明治期の「明るさ」と、高度経済成長期の「明るさ」というものには、どこか似た要素があったのではないか。
敗戦から立ち直った日本人は、今度は「豊かな生活」を求めてガムシャラに走り出した。しかし、その結果は…?

『坂の上の雲』のエンディングというのは、あっけないんです。
五木寛之さんもいつか仰っていましたが、「坂の上の雲」というのはアイロニー(皮肉)のようなもの。一生懸命坂を上っていって、ようやく頂上にたどり着いたと思ったら、それは雲をつかむような話だった。
日露戦争後の国民的熱狂をよそに、主人公たちはひっそりと幕を閉じていきます。その後の日本史をたどっていけば、そこにあるのは無常感とでもいうようなものでしょうか。

だから、高度経済成長期にも、司馬さんはどこか空しさみたいなものを感じていたのではないか。支えにしていた「国」はなくなった。その空虚を埋めるものが、今度は「モノ」になった…。まあ、私の誤読かもしれませんが。


司馬さんは、私はリアリストだと思っています。伝奇的なものも書いてはいますが、基本はリアリスト。歴史上の人物でも、リアリストを高く評価している。
あまりにもリアリストすぎて、司馬さんの本を読んでいると、ときどき私も暗澹たる気持ちになることがあります。

その一方に、司馬さんが終生憧憬を抱いていたようですが、モンゴルの草原のイメージがある。「空」の世界。からっとした世界。その文脈で仏教を司馬さんは評価しているところもあるようですし、たとえば具体的には太閤になる前の秀吉とか、そういう人間像への愛着も感じられる。リアリズムを補償するもの、とでもいいましょうか。

その「空」を背景にして、歴史の中で個々人を眺めるとき、どうしようもない愛惜の思いが出てくるのではないか。懸命に生きる人間の健気さみたいなもの。美しさみたいなもの。一方で、業深き存在故に、過ちを繰り返してしまう人間への、憤りやら嘆きやら、切なさみたいなもの。それが先述の「いじらしさ」なのかな、と。私なりのとらえ方ですけどね。

司馬さんが好きだったという菜の花ですが、あの実用的ではあるが可憐な花を改めて眺めてみると、そこに司馬さんの世界が-美学って言うと言い過ぎかな-映されているような気がします。

せっかく分けていただいた菜の花を、喫茶店に置き忘れてきてしまった、というオチなのですが(笑)


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【2006/02/26 22:07 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
江原啓之 『江原啓之のスピリチュアル子育て』
今日も暖かかったですね。春の足音が大きくなってきました。

私の方はと言えば、花粉症なのか風邪なのか、頭が割れるように痛くてまいりました。
いろんなことが重なって、精神的にもきつい日々が続いていて、ようやく今日あたりかな。やや復調してきました。

さて、今回取り上げるのは、江原さんの本です。
江原さん自身も2児の父のようですね。

内容としては、あいかわらずの江原節といったところですかね。食事のことから病気のこと、夜尿や噛み癖のことなどなど、具体的にアドバイスがあるので、その点は分かりやすいですね。江原さんはあまり抽象的なことは言わず、具体的に言ってくれるので、とっつきやすくていいです。

もう一つ、特徴的なのは、「なぜ生まれてくるのか」ということについて、常に明確なんですね。どの本でもテレビでも同じことを語っている。

子育ては、神様から子どもを授かって育てるという「ボランティア」であるということ。たくさんの感動と経験を積んで、魂を磨くために、最適の親を選んで生まれてきた、ということ。物質的な価値観に翻弄されないこと…。

「人間がこの世に生まれた最大の理由。それは、愛を学ぶためです。人間は人間を愛するために生まれてきたのです」
(32ページ)


まあ、言うまでもなく、教育とか子育てとかは、そこに携わる人々の生き方なり価値観なりがモロに反映されてしまうわけで…。間違った価値観を押しつけている危険性ももちろん抱えている。自分が言っていることとやっていることに矛盾があるかもしれないけれども、そんなことはかまわずに子どもを育てている。うーん、怖いことだ。

なにが正しくて、なにが間違っているかというのは、ウィンドウズ・アップデートみたいに日々更新されていく類のものなのでしょうが、まあ、責任は重いものがありますよね。とくに自分の子どもに対しては。完璧な人間などいないので、間違ったと思ったら修正していけばいいのでしょうが。未熟な私の言動で被害を被った子どももいたことでしょうが、申し訳ないなあ…。

親であれ教師であれ、自己反省能力は必須だと思います。とくに教師はそうでしょうね。自分をいかに客観的に、シビアに見れるかどうか。自分の悪いところを素直に認め、改めていけるかどうか。そこで問われるのは、センスというよりも、人間としての誠実さなのかもしれません。

でも、結局は、子どもは親を手本にして、ここはいいところだったから受け継いでいこう、ここはダメだから、自分はそうならないようにしよう…と修正していく力を持っていますからね。自分として最善のかかわりをしていったとしても、どこかに限界はありますから、そこは子どもにがんばって乗り越えていってほしいところでもあります。古いOSが新しいOSにバージョンアップしていくように。

だいたい共感しながら読んだ本書でしたが、一点だけ、どうかな?というところがありました。
それは、体罰も場合によっては可、というようなところ。「この宝物!」と言いつつお尻をたたく、という東北の風習を褒めています。

言いたいことは分かるのですが。私自身もその子のために手を上げることはやぶさかではないつもりではいます。
でも、手は上げないようにしています。極力言葉によって理解してもらうことを努めていきたいです。おそらくメッタなことがない限り、これからも手を上げることはないでしょう。

虐待が増えていると言われる中で、子どもを虐待していると言われる親は、だいたい「しつけだ」と言って正当化しています。教育の現場でも、子どもに体罰を加えるところは、必ずといっていいほど同様の正当化を行っていて、冷静に子どもがどう実際は感じているのか、ちゃんと受け止めようとはしていないように思います。それが怖いのです。

「体罰は絶対にしない」という前提に立って、初めて、どのように相手に理解してもらえるのか、という難しい問題に取り組める足がかりがつかめるような気がします。その努力の先に、新たなコミュニケーションの可能性が広がるのではないでしょうか。

そういう意味で、私は「やっぱり体罰はダメでしょ」と言います。正確には、体罰の是非はグレーゾーンなんですけどね。


一昨日、子どもと留守番の日だったので、裏の公園に行きました。もう梅が咲き始めています。

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一日子どもと一緒にいると、たまにイライラしてしまうときもありますね。
プラスティックでできた恐竜のおもちゃがあるのですが、それを部屋の中で壁にぶつけて遊んでいたので、やさしく注意したら、またやったので、ちょっときつめに怒りました。そしたらワンワン泣いて、義母さんに泣きついていました。「怒ったら悲しいよー」と訴えながら(笑) 義母さんがなだめた後、私も彼を抱き上げて「大好きなんだよ」と言って抱きしめたら、不覚にも涙が出てきてしまいました。お恥ずかしい話ですが…。

泣いたり笑ったり、自分の時間もなかったりと子育ては楽じゃないですが、こういう時間を過ごせることを感謝しなくちゃ、ですね。居間の仏壇に思わず手を合わせました。
【2006/02/23 21:27 】 | 読書日記 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
坂本政道 『死後体験』・『SUPER LOVE』
今日は暖かい一日でしたね。
昼休み、(明治)神宮の森を散歩してきました。
のんびりと皆さんくつろいでおられました。小春日和、と言ったところでしょうか。
弓道場の傍に竹林があるのを、今さら気がつきました。
竹林がなぜか昔から好きでした。独特の清涼感がありますよね。

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神宮の森の竹林(2006)


今日取り上げるのは、坂本政道さんという人の書いた本です。身内から借りました。

坂本さんという人は、もともと半導体のエンジニアらしいですね。
「死後、人間はどうなるのか」ということに関心を持ち続けて、ふとした縁でアメリカ・モンロー研究所の「ヘミシンク」というプログラムに出会います。

「ヘミシンク」というのはモンローさんという人の開発した技術ということです。左右の耳から異なる周波数の音を同時に聞かせると、様々な変性意識体験をすることを発見したそうです。実験を重ねて体系化したのが「ヘミシンク」。このプログラムを体験すれば、基本的にはどんな人でも変性意識世界を体験できるそうです。

変性意識の世界。それはいわゆるスピリットの世界。「死後の世界」のようです。自分の過去世、来世、ガイドやあの世の住人たちと出会うことになる。

ヘミシンクの実践を積み重ねていくことによって、どんどん深い心の世界を探求していくことができるそうです。

坂本さん自身、渡米して何回かヘミシンクの実践を重ね、自分の前世を見たり、今の奥さんとの前世での関係を見たりします。また、「ガイド」たちと一緒に、いわゆる成仏していない霊たちを救出することもします。

この地球上の生命体だけではなく、他の天体の生命体との交信や、人間の意識の進化の過程―それは鉱物、植物、動物と進化して人間に至ったということですが―も知るようになるということです。

まあ、この辺りになるとかなりブッ飛んだ話になってくるので、にわかには信じがたい話にもなってくるのですが…。坂本さんは、単純に「信じるのではなく、体験して知ればいい」みたいな言い方をしてますけどね。私自身、機会があればやってみたいものですが…。

この方法を開発したモンロー自身は、どこまで深いレベルに到達したかというと、「大量の無条件の愛」の世界。その世界に浸されることによって、不可逆的な変化が彼自身の中に起こったといいます。

モンローがその世界で知った世界の「創造神話」というのは、これまたスケールの大きいものです。それは本書に譲ります。

つまるところ、私たちは愛を施すこと、体験することで進化していき、やがて神へと帰還していく存在である、と。

人それぞれが自分の「信念の世界」に住んでいるので、それを崩していくのが容易ではない。その信念は、スピリットの世界では実在として見えるので、その人にとっては「だってそこにあるじゃん」っていうことになる。信念が変われば、また見えてくる世界も変わってくる…。「客観的な事実」と「主観的な事実」が不可分なんですね。想像即実在。これは厄介ですね。
坂本さんによれば、ヘミシンクを通して探究が深まっていくと、そういう世界も見えてくるようです。

ちょっと抽象的な言い方ですが、「現実」とはなにか、という問いに否応なく向き合わされます。
案外いい加減なものなんですよね。お互いに見ている共通の物があったとしても、どこまで本当にお互いが「同じ物を見ている」と言えるかどうか。赤いリンゴがあったとして、その人の見ているリンゴの色と、もう一人の見ているリンゴの色が同じかどうかなんて、分かりようがない。もしかしたら違っているかもしれない。

よく言われる喩えですが。
虹は普通7色だと言う。しかし違う文化圏に行くと、5色とか6色とか言う。それはどちらかが間違っているわけではない。ある文化圏では、色の認識の仕方、名前の付け方が違うんですね。その文化圏での物事の認識の仕方っていうフィルターを通しているから、5色にも7色にも「見える」。

自分たちの社会でもよくありますよね。
「いい学校」=「いい仕事」=「幸福」なんて言う「幸福神話」もまだ根強くあることに驚かされます。もう崩壊して久しいはずなのですが。大企業や官庁に勤めて順風満帆だったはずの人生に思わぬ「落とし穴」が待っていたなんて、耳タコですよね。どこの学校に行こうが会社に行こうが、だれとつきあおうが、「一瞬先は闇」であることには変わりないと思います。


話は脇道に逸れましたが。

今、この生きている場で活路を見出していくしかないのだと思います。「光の世界」はどこか遠い彼方にあるのでもなく、あの世にあるのでもなく、「いま、ここ」にあるものなのでしょう。それを探し出し、現出させることが修行ということになるのでしょう。

ヘミシンクの実践で見えてくる世界というのも、まあ、他の宗教家やメッセンジャーの言っていることと変わりないと言えば変わりない。だいたい同じようなことを言っている。時間と費用のかかるヘミシンクはなかなか実践できるものではありませんが、そこで得られた知見というのは参考にすることができる内容だと思います。

あとは、自分のオリジナルの人生の中でどう活かしていくか。深めていけるか。そこに「個性」が出てくるのでしょうね。

日本教文社からモンローの訳書が出ているようなので、今度仕入れようと思います。これが高いんだな…(;;)
【2006/02/15 22:16 】 | 読書日記 | コメント(2) | トラックバック(1) | page top↑
ディケンズ『二都物語・クリスマスキャロル』
今日は満月がきれいですね。今朝も6時台でしたがまだ満月が出ていて、西の空に沈んでいくところでした。

月の青い光が好きです。月の光で写した写真とか、とても好きです。静けさと、独特の澄んだ感じがいいです。

もう2月も半ばですが、やや寒さはやわらいだでしょうか。
旧暦では太陽暦2月は正月に当たるようですが、旧暦の方がなんとなくしっくりとくるように思います。太陽暦1月の後半に寒さのピークを迎えて、旧暦正月を迎える。いかにも死と再生、という感じがしますよね。太陽暦への切り替えは明治期でしょうが、そう考えると、明治というのは相当劇的にいろんなことを変えたということが分かります。


さて、久しぶりの読書日記です。

初めてディケンズを読みました。河出書房の昔の文学全集版です。この本はいただいた物ですが、それにしても、最近はこの手の文学全集も安くなりましたね。ブックオフあたりだとそれこそ二束三文です。ブックオフのような古書の量販店が拡大していくことは、私としては嬉しくも思いますが、今までやってこられた古書店の方々にとっては災難ですよね。複雑な気分です。

『二都物語』も『クリスマスキャロル』も19世紀半ば頃の作品です。ディケンズは英国人です。
『クリスマスキャロル』の方が有名ですかね。巻末の解説によると、『二都物語』の評価はそれほど高くないようです。

しかし、わたしにとっては、『二都物語』はなかなか面白い作品でした。『クリスマスキャロル』よりもよかったです。

作品の舞台は18世紀末のフランス革命。革命期のフランスの様子も案外よく書けているように思いました。

フランス革命というとまるで人類の黎明、近代社会の確立のようなイメージで語られる節もありますが、その後のフランスのやってきたこと―とくに海外での植民地支配など―を見ていると、いかに彼らの言う「人権」が怪しいものだったかと言わざるを得ません。後で分かったのですが、彼らの言う「人間」というのは、欧米人限定だったようですね。

それはともかく―革命前の貴族・領主の圧制(日本では類を見ない)と、革命中の民衆の暴力というものについては、当時の作品としては、リアリティがあったように思います。

英国に亡命してきた良心的なフランスの貴族の末裔が、故国の執事(だったと思う)の危機を聞くに及んで、彼を救わんがためにフランスに戻る。しかし、貴族ということで民衆に捕らえられ、獄に繋がれてしまう。まもなく断頭台へ送り込まれようという危機に瀕して、彼の友人である人物が奇策を巡らせて救おうとする…まあそんなストーリーです。

その友人というのは、法律家なんですね。その貴族の裁判に弁護側として手伝ったのが縁だったのです。その法律家は貴族の妻君を愛していました。それ故に、夫を救おうとしたところもあったようです。

その法律家はシドニー・カートンという名前なのですが、仕事はできるけれども放蕩者で、毎晩浴びるように酒を飲んでは遊んで暮らしていました。富と名声はあったのですね。

一緒に亡命貴族を救おうとしていた同志に、人望の厚い老紳士がいました。シドニー・カートンは、その老紳士と話していて、自分の老後を考えてしまう。自分にはなにも残らない。残せない。

彼は未明のパリの街をさまよい歩きます。カートンの心には、聖書の一節がリフレインしている。

「イエスのたまいけるは、われはよみがえりなり、生命なり。われを信ずる者は死ぬるとも生くべし。すべて生きてわれを信ずる者は、いつまでも死ぬることなし」
(ヨハネによる福音書 第11章25~26節)


古い訳書なので思いっきり文語体なのですが(^^j)

だんだんと夜が明けていきます。セーヌ川の流れをじっと見つめていたシドニー・カートンは、やがて決意します。自分がその亡命貴族の身代わりとなって、彼とその一家を救おうと。亡命貴族にはまだ幼い子どももいましたし、老いた義父もいました。

断頭台へと向かっていく荷車の中で、やはり無実の罪で処刑を宣告されている一人の少女と、彼はつかの間の会話を交わします。短い間に、二人は心の底から信頼しあうようになります。二人は固く手を握りしめあいながら、断頭台へと消えていきます。

荒削りではありますが、私はなかなか美しいお話だと思いました。

印象に残ったのは、シドニー・カートンの改悛の朝の場面です。このシーンを題材にして、私も今度なにか書けたらいいな、と思っています。人間の孤独と希望とが、典型として描かれているような気がしますが、それはそれで感動しました。

『クリスマス・キャロル』もテーマとしては似ているものがありますが、欧米の文学に、キリスト教の精神が根強く息づいていることに改めて驚かされました。日本ではそこまで信仰をテーマとした(ベースにした?)長編ってあまり見かけないように思いますが。遠藤周作さんの『深い河』なんていうのもありますけどね。

文学の世界での評価はともかく、私としては『二都物語』はなかなか読みごたえのある作品でした。『クリスマス・キャロル』は、あんまり…でしたが。


ちなみに、引用されている聖書の一節について。

聖書を読んでいて、その独特の意味があるのだな、ということを知りました。
それは、生きる、死ぬ、という言葉が、肉体の生とか死とか言っているのではないのだな、ということ。正統の解釈は他にあるのでしょうが、私はそう感じました。魂が、本当の意味で生きているのか死んでいるのか。そういうことなのだろうと思います。
肉体の死とか生とかはほとんど問題にしていないのですね。

【2006/02/13 19:02 】 | 読書日記 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ようやく…
ようやくPCが使えるようになりました。
秋葉原につきあってくれたHBKさん、ありがとう。あの夜は忘れない(笑) 今日はWWE楽しかったでしょうか。

昨日はY馬君、S太君、あれから原宿に行ってきたのでしょうか。当たり前のことですが、みんなだんだんと大人になっていくのですね…。卒業して2年になりますが、徐々にたくましくなっていく姿に嬉しく思います。Y馬君、あせりは禁物です(笑)

先日はT行君、Eさんも来ましたね。
T行君、自分でベストだと思う選択は、ためらってはいけませんよ。常に最高のものを追いかけてくださいね。それなりのものが返ってくるはずです。苦難は多いかもしれませんが。

PC入れ替え後、メールを受信したらなんと300件! すいません、返事遅れます(jj)

今日は家で留守番だったのですけれども、子どもが風邪引いていたので図書館に絵本を借りに行きました。家の中で静かに遊ぼうかと。

私が小さい頃読んでもらった絵本で、印象に残っていた『三コ』(斎藤隆介作・滝平二郎画)と、かこさとしさんの本、それに子どもが好きな恐竜モノを図書館で借りてきました。感動したり、暖かい気持ちになったり、おもしろく感じる絵本を見つけていきたいのですが、「これは!」と思うものにはなかなかめぐり合えません。

五味太郎さんの絵本とかもけっこう好きなんですけどね。
3歳の息子には『三コ』はまだ難しかったみたいで、彼は1ページ目ですでにソッポ向いてしまいました(涙) いいお話なんですが…。


先日、ある方から庭野日敬さんの『開祖随感』をいただきまして、ときどきパラパラとめくっています。R会の元会長さんですね。私も本をいただいた方もR会の会員というわけではないのですが、個人的には学ぶところが多く、参考にさせてもらっています。

その中の一節に、次のようなくだりがありました。

「…『苦は常態』というのが仏教の教えです。その苦とは、ただ苦しい、切ないということだけではなく、自分の思いどおりにならないこと、それが苦なのです。そう考えると、生まれも育ちも違う男女が生活を共にする結婚生活は、まさに苦が常態の毎日であるのが分かってくるのではないでしょうか。こっちの思いどおりにならない相手に、どう合わせていくか。その努力の中で互いに本物に成長していくのが結婚生活で、結婚も仏をめざす修行の一つと言ってもいいのですね。そこを覚悟してしまうと、結婚生活の一日一日が喜びの一日一日になってきます。
 人生は苦であるという教えを、あきらめのすすめのように思っている人がいますが、反対に、積極的に幸福を築いていく教えが仏教なのです」
(庭野日敬『開祖随感10』30~31ページ)



この一節には、身につまされるものがありました。

とかく一緒に暮らしていると不満が募ってくるものですが、ああなるほど、そういう風に考えられるのだな、と思いました。先日引用した江原さんの「膿み出し針」ではないですけど、相手への不満というのは、つまるところ自分の至らなさなのかな、と。関係を深め、高めていく努力こそ大事なのかな、と改めて感じました。

一緒に生活していく人というのは、浅からぬ縁なのでしょうから。結果として結婚生活が続くかどうかは分かりませんが、その過程が大切なのでしょうね。

それと、やはり私にとっては子どもの存在が大きいかもしれません。夫婦関係の不安定さが子どもに及ぼす影響ということについては、たまたま目にする機会が多かったので、自戒をしているつもりです。

子どもへの愛情が、夫婦関係を前向きなものにしていかなければという気持ちを起こさせ、自分の中のエゴや意地を和らげさせてくれることもけっこうあります。夫婦ケンカをしているとき、子どもが寂しそうな、心配そうな顔をしているので、それが目に入ると胸が痛みます。

そんなことでもないとなかなか自分の悪いところを改めていこうとしないのですから、私はつくづく業が深い人間だとおもいます(涙) 


有名なパウロの一節を思い出します。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
(コリント人への手紙Ⅰ・13章)


このようにはなかなかできるものではありませんが、業の深い私にとっては、心の片隅に刻んでおきたい言葉ではあります。



【2006/02/06 00:08 】 | 未分類 | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
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