スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:-- 】 | スポンサー広告 | page top↑
井上靖『孔子』その2
前回に引き続き、井上靖さんの『孔子』を読んでいて、考えたことを書きとめていきたいと思います。

次の言葉は、孔子の弟子の一人が、今は亡き師の思い出深い言葉を回想している場面です。

「―“仁”という字は、人偏に“二”を配している。親子であれ、主従であれ、旅であった未知の間柄であれ、兎に角、人間が二人、顔を合せさえすれば、その二人の間には、二人がお互いに守らねばならぬ規約とでもいったものが生まれてくる。それが“仁”というもの、他の言葉で言うと“思いやり”、相手の立場に立って、ものを考えてやるということ。」
(281ページ)


この一節だけでは、「仁」というのは「守るべき規範」という風に聞こえるかもしれませんが、文脈をたどっていくと、どちらかと言うと「自然発生的な感情」というニュアンスが強い。「そうするべきもの」というよりは、「そうなっていくはずのもの」というニュアンスです。

その確信たるや、かなりのものです。性善説もいいところです。

人間は果たしてそこまで純粋なものだろうか。正直なところ、そう信じたいところだが現実は…というところでしょうか。日常で出会ったきた人たちを思い返しながら書いていますが、そうとも言い切れない。ましてや私自身、自己中心的に生きているではないか。

たとえばアイリーン・キャディという宗教家がいます。
彼女はいわば「神は私にかく語りき」という内容のことを本にまとめています。その中で次の一節―

「…どんな人であっても自分が接する人すべてに心を開き、愛したいという愛に満ちた美しい思いで心を満たしなさいということです。何の差別心もなく、誰かを愛し、誰かを愛さないという選択もしません。の普遍的な愛を自由に流れさせるということなのです。の愛は誰に対しても変わらず、すべての人に対して平等です。そのことをどれだけ受け入れてくださるかは、あなた次第なのです。この普遍の愛を表現することを恐れないで下さい。それは個人を越えたものです…」
(『心の扉を開く』346ページ)


おいおい、俺はそんな神様みたいなことはできねえよ…なんて言いたくなりますが、キャディが伝える神は「いやいやアンタも本当は神だから(^^j)」と言うのです。
蛇足ですが、江原啓之さんもそういう言い方をしますね。みんなもともとは神で、修行を積んで神に帰っていく存在、みたいな。

そうだそうだ、その通りだ!となんの疑問を持たずに受け入れることは、できません。ふーん、そういうこともあるかもしれないな…というくらいでしょうか。現時点では。私自身を含めた日常、社会、世界の現実というものは、そういう「美しい世界」(と私は思っている)とあまりにもかけ離れているからです。

しかし…ですが、現実世界の荒んだ風景を凝視していても、私も世の中も変わっていかないこともまた事実。いいものに変えていこうという努力なくしてはなにも変わりません。そのとき、いいものに変えていこうというとき、「美しい世界」への確信や信仰みたいなものがなければ、変えていく勇気も出てこないでしょう。自分の中にも人の中にも、個を超えた尊いもの、普遍的で、永遠のもの、限りなく善なるものがあるという期待と確信なしには。

まあ、実際には、そんな信仰のようなものを持たずとも、世の中をよくするために働いていらっしゃる方もゴマンといると思いますが…(^^j) 私の場合は、そういうものを必要としている、という言い方の方が適切かもしれません。
スポンサーサイト
【2005/11/28 16:46 】 | 読書日記 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
井上靖『孔子』(新潮社/1989年)
読書日記をアップしていこうと思います。

今、通勤読書しているのは、井上靖さんの『孔子』です。書きたいことが山とあるので、何回かに分けて書こうかと思います。

孔子といえば、言うまでもなく中国は戦国時代のあまりにも有名な思想家・政治家ですね。聖人君子の代表的なイメージかもしれません。

論語の何節かは、今でも私の中に生き続けています。
とりあえずすぐ出てくるのは、「徳孤ならず、必ず隣有り」という言葉です。人間関係の不器用な私は、関係がうまくいかなかったり孤独だったりするときに、この言葉を思い出すことがあります。苦境にあるときでも、誠実さや思いやりを大切にしていれば、決して孤独に陥ることはないのだと勝手に解釈しています。我が道を歩んでいこうと勇気を与えてくれます。

話を戻しますが、聖人君子のイメージって、私の場合どこか人間離れしていました。のっぺりとした印象、と言いましょうか。およそ感情的ではない人物のイメージ。
ところが、正反対だったんですね。小説の中に、こんな一幕があります。

孔子の弟子の子路が、負函という町の長官、葉公に引見します。そのとき葉公に孔子の人となりを尋ねられたのですが、突然の質問に子路は答えられません。その話を師の孔子のしたとき、孔子は答えます。

「-どうして子路よ、お前さんは言わなかったのか。このように言ってくれれば、よかったではないか。
 子はちょっと顔を和らげて、
-その人となりや、憤りを発して食を忘れ、楽しんで以て憂いを忘れ、老いのまさに至らんとするを知らざるのみ。
 それから、少し間を置いて、
-余はまさしくこうした人間である。これ以上の人間でもなければ、これ以下の人間でもない。そうではないか、いつも憤りを発して食を忘れる。楽しんで憂いを忘れる。そして、いい気なものだが、老いのまさに至らんとするのを知らない。」(87-88ページ)


ある意味、かなり人間くさい人だったんだな、と。のっぺりどころか、かなり感情的もいいところだな、と。親近感が湧きました。

まあ、よく考えれば当たり前なんですけどね。なに考えているか分からないような人を信用することってないですからね。信望の篤い方だったようですから。奥深さもあったでしょうが、一面わかりやすさというのもあったのではないでしょうか。シンプルに、人としての信頼感みたいなものがあった人なのではないかと思います。
【2005/11/26 13:07 】 | 読書日記 | コメント(0) | トラックバック(1) | page top↑
勤労感謝の日
今日は勤労感謝の日ですね。

昨日、誕生日ということで家族に祝ってもらったのですが、カゼを引いたのか、今日は熱、頭痛、腹痛でさきほどまで寝込んでいました。

午前中、職場にSさんからいただいた植木を取りに行きました。月下美人や観音竹といったものですが、お陰さまで家族が喜んでいます。月下美人は一年で一晩だけ花が咲くということ。楽しみです。

20051202214439.jpg



午後は母が遊びに来ました。だいたい話の聞き役にまわることが多いのですが…。慢性的な頭痛に加えて言語障害が出てきたので医者に行ったら脳溢血と診断されたようです。当たり前の話ですが、人は徐々に老いていくのですね。

母の世間話を聞きながら、ああ、この人にとってはこういうことが課題なんだな、と思いました。今生でテーマとしているもの、といいましょうか。実の母という関係ですから、自分にも共通する部分はあるのだと思います。私の場合、「世間とのつきあい方」とか、「純粋なものをしっかり守る」とか、そういうことになるかもしれません。今のところ。

親子は似るものだと思いますが、でもやっぱり違うんですね。
身近な人が、私が大切だと思うものをそれほど重視せずに、その結果苦しんでいたりするのを見ると歯がゆい思いがします。しかし、それは仕方のないことなんでしょうね。逆の場合―周りが大切だと思っていることを私が受け入れずにイライラしている、なんてこともあるかもしれません。

話は変わりますが、今欠陥マンションのことが話題になっていますね。私の友人もそのことをブログで綿々と綴っていますが、素人にはマンションの欠陥なんて購入前にはなかなか分かりませんよね。
http://grandcity.blog12.fc2.com/

それにしても、金儲けのためなら安全性なんてぶっ飛んじゃうっていうのは、なんとも情けないことですね。今回明るみに出た件は、きっと氷山の一角なんでしょうね。そういうことが運良く?表沙汰にならずに一生を終えることができたとしても、必ずその報いはいつかどこかで受けるのだと思います。「人は自ら蒔いたものを刈り取る」。来世になるかもしれませんが。良い業をつくりだしていけるよう、日々の生き方を見つめていきたいです。私にとっては「身口意」の三業です。邪心やネガティブな感情などに翻弄されている毎日ですが…。

今日の西空に地震雲らしきものが浮かんでいて心配です。

【2005/11/23 22:18 】 | 未分類 | コメント(3) | トラックバック(0) | page top↑
もうすぐ34歳!
明日で34歳になります。

今年一年はどうだったか、振り返っています。
最大の出来事は、引っ越したこと。今まで借家暮らしでしたが、狭いながら自分の家というものを持つことになりました。しかし、まだ気分がつかめず、旅館にいるような感じです。

引っ越したことをきっかけに、園芸に興味をもつようになりました。
職場の詳しい人に聞いたり、鉢をいただいたりしながら、育てています。初めての冬越しで緊張しています。同居の義父母も園芸マニアなので、敷地内は植物園状態です。すこしずつ、我が家の植物たちをアップしていきたいと思います。

昼休みに明治神宮の森を散歩してきました。
何枚か携帯で写真を撮ってきたのですが、アップすることができません(^^j) できるようになり次第、アップしていきたいと思います。
鬱蒼と繁った神宮の森の小道を歩いてきましたが、ときおり陽の光が木々の間を差し込んできていて、その静謐な空間に思わず打たれて立ちすくんでしまいました。私にとってそれは束の間の楽園だったかもしれません。

日々生きていると、悲しいこと、頭にくること、寂しいこと、つらいことなどが怒涛の如く押し寄せてきて、明日からやっていけるのだろうかと気弱になることもしばしばです。自分自身の弱さ、自己中心性などに向き合わされることも苦痛です。もっと巧く生きていけばいいじゃん、と思う一方で、そういう生き方ができないでいます。

34歳という一年も自分自身を見つめながらやっていきたい。
江原啓之さんは、この世で多くの経験をしてたくさんの感動を魂に刻み込むことが大切だってよく言っていますよね。けっこう共感しています。生きていればつらいことだけではなく、当然幸せなこと、楽しいこともあるわけで、身近な人を大切にしていけるような生き方ができればいいな、と思っています。私なりの「隣人愛」の解釈です。

自分自身をどこまで成長させていけるのか。現実の自分自身を見るとあまりにも課題が多くて茫然としてしまいますが…。目標を明確にしてやっていきたいですね。

一年とは言いつつも、実際には人の命なんて明日をも知れぬもの。一年といわず今日一日を大切にしていくことなのかもしれませんね。

ともあれ、今日まで生きてこれたこと、私を支えてくれた人たちに感謝感謝です☆

SN250143.jpg



【2005/11/21 22:24 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
タラバガニ
今日、新宿でタラバガニをメインに使った和食のコースをいただきました。歌舞伎町の辺りはかなり混雑していて、あいかわらずの新宿の風景だなと思いました。どちらかと言うと、こういう繁華街は苦手な方です。

Sさんのご友人のOさんと初めてお会いしました。
雰囲気の似ていらっしゃるお二人でした。きっとご縁が深いのでしょうね。ソウルメイトと言っても過言ではないように思いました。

今日の午後、評論家の芹沢俊介さんのお話を聞く機会がありました。
おおむね共感して拝聴させていただきました。ウィニコットからの引用ということですが、「being」の重要性というものについては、仕事柄あらためて再確認いたしました。

「being」というのは、ありのままを認める、受け止めるということなのだそうです。その重要さは分かりながら、なかなかそうできない日常というのが現実ですね。私にとっては。ついつい人に期待しては押しつけたり、頭に来たり、幻滅したりしています。

ありのままを認めてほしい、受け止めてほしいという欲求は、多かれ少なかれだれしも持つものだと思うのですが、どこかでそれを人に求めることはできないのだ、してはいけないのだ、という感覚もあるので、私は複雑な心境です。私自身としては、なるべく寛容にいろんな人を受け止めていけるような人間になりたい、と狭量ながら思うのですが。矛盾しているんですけどね。

100%理解し受け止めてくれる人はいないのだ、という孤独。ひねくれず、スネずに、かえって私以外のだれかの孤独を共感していく方向に昇華していけないだろうか―。そんな青臭いことを夢想しています。

また、深い共感というものは、どこかでモノ言わぬ他者との間でこそ成り立ちうるのではないかとも思っています。ちょっとオーバーな言い方ですが。たとえばそれは植物だったり、動物だったり、森の中だったり、白波立つ海だったり、小さい子どもだったり。世間にどっぷり浸かってしまった大人が「being」を体現して与えてくれるというのは、どうにも想像ができないのです。

もしかしたら、私の「being」の解釈がズレているのではないか、という危惧もあります。しかし、この(手の)言葉というのは、はたしてどこまで互いの認識が共通しているのかという判定が、たいへん難しいように思います。お互い解釈が違っているのにもかかわらず、共通しているものと思い込んで会話しちゃうなんて危険性もありますよね。

しかし、その共通認識を言葉で定義していくことは不可能だと思います。それこそモノ言わぬコミュニケーションの中でこそ伝達可能なキーワードなのかもしれません。お互いが目を合わせた瞬間に伝わってくる、そのときの感覚なんかに潜んでいるかもしれません。

眠れなくなりそうな予感がしてきました。
CDでも聞きながら寝る準備に入りますzzz
【2005/11/20 00:36 】 | 未分類 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
船の汽笛に寄せて
だいぶ寒くなってきました。

夏の間、書斎の窓を開けて網戸にしていると、ときおり港の方から船の汽笛が重低音で響いてきます。そんなとき、「ああ、あの船はどこから来てどこへ行くのだろう」とか「船員はなにを考えて船に乗っているのだろう」「貨物船だとしたらなにを載せているのだろう」「客船だとしたらお客さんはどんな人がいるのだろう」などと素朴な疑問が頭をかすめます。

どこかで、自分自身が重なって思えてくるのかもしれません。
「自分はどこから来てどこへ行くのだろう」「自分はどんな荷物を載せて生きていくのだろう」……

人は、その人生の終着点でなにを思うのでしょうね。
船の汽笛が哀切に響いたり、勇ましく響いたりするのは、自分の心境を映し出しているからなのかもしれません。
【2005/11/18 20:45 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
初めてブログを書きます。日々思うことを書き連ねていこうと思います。
【2005/11/15 22:14 】 | 未分類 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
| home |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。